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業界つれづれ

インターネットというのはめんどくさい、と言うのが最近の私の思いなんだけど。
私はフェイスブックのユーザーでもあるんだけれども「友達」のなかには芸能人から政治家から業界のひとやらお客様やら様々な方がおられるので「こんな事は書いていいのか」とか「この話題はこちら向きではないな」とかいろんな事を考えてしまう。まあ、性分なんだろう。
で、例えば業界の関係する話題なんかは結構な議論になる場合もあるし、かといってそんな「身内の議論」を公にさらす,と言う事が業界にとってプラスになるだけならよいが、ともすれば「足の引っ張り合い」に見えたりもするのでそうなるとなんとも「やれやれ」なことになってしまいそうで、「ノート」に書いたものの公開しないなんて「意味不明」なことで眠ってしまった文章があるわけだ。
もっとも「誰からも相手にされない」事の方が可能性としては大きい事柄なので年甲斐もなく自意識過剰でおこちゃまな事なのかもしれん。今こんな事かいてしまった自分がすごく「ハズイ」。
というわけで、場所柄を変えれば公開もありかな、と思ったのでこちらにコピペします。
以下、はフェイスブック「ノート」に非公開設定で投稿した文章ですのでよろしく。

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私はフェイスブックで論争する事は好まない。まあ、そうはいっても人様のフィードに意見表明することもあるのでエラそうな事は言えないが、どうもウェブ上での議論と言うのは相手の弱点を指摘してイメージダウンを計る事のみを目的としたような上滑りな感じが否めなくて性にあわない。
全国組織の公益法人化について積極的な発言をされている方もいらっしゃるが、自分としては積極的に同意できなかった。といって、誰かのエントリにコメントを書き込み議論になっても却って相手のブログやタイムラインを荒らしているような格好になってしまうのでコメントは控えた。ココには自分の感想的な意見を論点だけ整理しておきたい。

公益法人化の是非について
はっきり言って私にはわからない。業界が全国的な課題を抱えているのはわかるが、「公益法人化」による「公益事業」がそういった「課題解決」にどれだけ深く結びつくのかが見えない。「公益化」というのは「ハンコの社会的経済的実用性」に根ざすものなのか、「ハンコの文化的価値」に基づくものなのか、そのどちらに軸足が定まるかで「公益事業」の内実が大きく変化する様に思う。「漢字検定」ですら公益事業ではなかったのに一体我が業界の規模でどんな公益事業ができるというのだろう。全く、わからない。ただ、積極的に反対する理由もない。とにかくわからない事だらけだ。

「地域主義」という非難について
「公益法人化」に対する消極的な意見の幾つかを想定して「地域主義」なるものについて批判的見解を表明されている人がいらっしゃる。「地域主義」がどのような振る舞いを意識して語られているのかは今ひとつ鮮明ではない。ただ、「地域主義」と言う批判をされるたびに「京印章」を一つの戦略として考えている私としては、なんとなく「全否定」されたような被害妄想的な気分になる。私は例えば印鑑登録制だとか、印章の芸術性と実用性の統一とか、彫刻技術の研鑽、保全、とかその他全国的な取組で解決にあたるべき課題は山積していると思うしその事を後景に押しやるつもりはないが、このグローバリズムの世界だからこそ「リージョナル」な世界が磨かれねば我々のような零細で脆弱な経営基盤の業者は立ち行かない、と考えている。「地域」にへばりついてこそ「裏づけ」ある情報発信が可能になるのではないだろうか?
「京印章」はまだまだ甘さもユルさもあるが、この地に於いて我が業を守り発展させる為に有効な戦略の一つだと考える。「京印章」の名の下に技術の向上と経営の発展を統一させようと言う試みは、グローバリズムの中でしたたかに生き残る為のリージョナルな戦略だ。京都業界のなかで「京印章」理解にばらつきが有ることは認めざるを得ないのが現状だが、一部に無理解や曲解が存在するからといって、「京印章」の探究そのものに「地域主義」のレッテルを貼り「公益化」の名の下に言葉足らずの批判の言葉をSNSで発信する等と言う行為は、我々のリージョナルな戦略を頓挫させるための悪意に満ちた行為と私には映るし、このような「地域主義批判」を、私は断固拒否する。

組合組織について。
以上述べたような、私の立場からすると組合組織の非合理な点は全国組織が「ブロック組織の連合体」として成立している所にある。
われわれの零細規模での生業を発展させる道は「リージョナル」であることだ。東京本社のフランチャイズ店の猿真似をする事ではない。隣のハンコ屋の真似をする事に終始し「チキンレース」に埋没する事でもない。
自分の地域にあった経営の道を自分の持つ能力と資材を生かしながら探究する事、それが「リージョナル」であることに他ならない。同時に、そのような無数の経験に学ぶ場を提供し、ハンコの社会的有用性の保持について消費者にPRする為の単一の全国組織が必要だ。
従って、現在ある「関東」「近畿」といった中間的な「ブロック」組織はいらない。ブロックはその歴史的役割をすでに終えている。
「ブロック」組織は廃止させるべきだ。
組合の全国組織はもっと「リージョナル」な課題に取り組みやすい都道府県組織を単位とするゆるやかな連合体とするべきだろう。

最後に
この様な事を書くと「京印章ってなんですか?」というお決まりの紋切り型の質問を受けるかもしれない。
私の私見を述べておく。

歴史的な意味での「京印章」には決まった形はない。「千枚漬け」だけが「京漬物」でないのと同じ話しである。ただ、時代区分によって印章の「トレンド」はあった。
最初の「トレンド」は「唐風」の官印である。この時代の印章はほぼ「官印」と同義である。大和古印が奈良から平安時代に変り、文字の正確性を高め、その形を整えたものと言い換えてもよい。
次の「トレンド」は明代の篆刻である。すなわち篆刻輸入の時代。明代に隆盛した篆刻の刻法、印論がそのまま「トレンド」となった。
そして、一大「トレンド」となったのが「古体派」篆刻。高芙蓉はそれまでのトレンドであった「明風」の新体派篆刻を批判しそのカウンターとして「古体派」を提唱した。高芙蓉は京都で「有職故実」家と親交を深め日本に於ける「古体派」のあり方も探究、「印論」をまとめた。高芙蓉と親交を深めた有職故実家にして、のちに模造贋作にまで手を染める程の病的な古物癖の持ち主であった、藤貞幹は日本に於ける古印の収集研究にも没頭「公私古印譜考証」を作成、模刻集「貞幹模古印譜」を著した。
時を隔てて現れた、安部井櫟堂はこの古体派の篆刻の「印論」を天皇御璽、大日本国璽の製作を通じて実用印の印顆で展開した。それ迄様々な理由から「新体」の印章の独壇場であった実用印の世界で「古体派実用印」の可能性を安部井が開いた形だ。

しかしこの後、篆刻も実用印も「新体」風が主流となりその中心地も東京へ移ってしまった。
京都には細々と古体派篆刻を実用印に展開する作風が残っていたが、河井章石、園田湖城、中野竹邨あたりで自覚的に古体派の作風を探究する人は絶え、高度成長期に入ると実用印の世界では、倉敷篤福氏を代表とする新体と古体の折衷的な作風が主流をしめる。現役では唯一、小泉景氏の作品が比較的古い京印章の作風を色濃く残しているが、後進の若い刻者は技能的に高い評価を受けている方でも「古体」の作風はすでにない。
現代の技能検定的な評価基準で古体派実用印を評価すると「アキが多すぎる」とか「野暮ったい」というネガティブな表現で片付けられる事になるのだろうが、古体派の理念にもとづけば現代の印は「華美に走りすぎ」「屈曲、増画におぼれ」「古体の基=封泥印の風合いを無視している」傾向が強い、ということになる。

さて、それではそんな京印章の歴史から導かれる、現代「京印章」の戦略は何ですか?と問われれば、目指すべきは「古体派実用印」の復活なのである。すなわち、今は絶えた京印章の形の復元と復活、これが現代「京印章」の最大のテーマなのだ。ただし、この事は容易ではない。既に京都にさえ古体派の価値観で印章製作するという人が絶えている訳だから。今や、古体派と呼べる印を刻する人は、篆刻の世界以外には存在していない、といっても過言ではない。すでに「技能」が評価されても「表現」が無価値と化した実用の世界では「古体派」の表現は絶滅させられているのだ。
この事に気づくのが、もう20年、30年早ければと悔やまれてならない。

自分のやろうとしている事は、たとえば「恐竜」を復活させようとする狂った科学者の試みなのかもしれない。復活した所で業界には異端の烙印が待ち受けているだけなのかもしれぬ。いや既に振り向かれる事すらないのだろう。自己満足と言う言葉が脳裏を去来するばかりだが、それでも唯一この血脈に残されたDNAをたよりとして進むしかなかろう。
ただ、言いたいのは「古体派実用印」の作風が途絶したのはその作風に魅力がなかったせいでは断じてない。「古体派実用印」には洗練された「印」の為の篆書の美しさがある。余分なものを極限までそぎ落としたシンプルさと切れがある。素朴で飽きのこない親しみがある。そんな「古体派実用印」が絶えてしまったのは、歴史のいたずらと言ってしまえばそれまでだが、明治維新以降、東京一局に人材、資材、が集中するなかで、中井敬所のように、権力の中枢に新体の技術者が入り一大門閥を形成した事、すなわち「政治化」したことと無関係ではない。極論すれば「古体派実用印」は勝者によってねつ造された歴史の中で窒息させられたのだ。
今や「古体派実用印」でもって業界内で技能的評価を受けるなど望むべくもない。業界で評価されるのは技能の衣をまとった「門閥」でしかない。「天皇御璽と大日本国璽は小曽根乾堂の印稿を安部井櫟堂が刻したもの」などという都市伝説の類いが証拠も挙げずに眞説のごとく語られるのはまさしく「門閥」による歴史のねつ造の最たるものだろう。

なお、最初にもかいた様にFB上での議論は謹みたいと思うので公開コメントにはお応え致しかねます。どうしても意見を伝えたいと言う事でしたら個人的にメッセージを頂ければお答えできる範囲で対応致します。

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フェイスブックからの引用は以上である。

「歴史」は長い間「勝者」によって「作られる」物だった、と言う事が巷間で伝えられている。
たしかに「古体派実用印」の途絶という一事を俯瞰しても商品流通における「競争原理」だけではなく、技能団体「検定制度」や「技術競技会」という「政治」の力学が大きく関与している事に疑問の余地はない。
昨今の「日展」事件を聴くにつけあらためてそう思う。
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京印章・2つの源流~古体派の展開ー高芙蓉と藤貞幹ー(3)~

ここで、もうひとり、高芙蓉が親密な交際を結んだ人物のなかで我々印章人が心にとどめおきたいのは藤貞幹(1732〜1797)であろう。藤貞幹の名は我々の業界では日本独自の印章書体「古印体」の揺籃期を代表する人物としてその名を知る人も多い。藤貞幹は京都仏光寺中の坊の塔頭、久遠院の権律師、玄煕の家に生まれた。幼くして得度するも18才で還俗、学問技芸に広く親しんだ。
藤貞幹と高芙蓉がどのような経緯で親交を結ぶことになったのかはわからない。ただ、この二人が「同臭」の人物であったことは間違いの無いようだ。水田先生の「高芙蓉とその一派」では二人が金石文の採訪など行動を共にする機会が多かったことを紹介しているし、ふたりの来歴には有職故実、儒学、書画など重なる所が多い。中でも古物への関心は共に深く、二人ともその蒐集で家産が貧することもしばしばであった、という。
とりわけ藤貞幹の古物に対する執着は蒐集に留まらず、書画や器物、古文書を求め諸国を歩き逐一模写し書き留めたということである。「尤モ古書画ヲ好ンデ、片楮半葉トイヘドモ、必ズ模写シテ遺サズ。金石遺文ヲ索捜シテ、寸金尺石、破盂欠椀ノ微トイヘドモ、古ヘヲ徴スベキモノハ皆模造シテ捨テズ」 と伝えられているので古物の形態、欠損摩耗、文字文様の細部にわたる形状などあらゆる「古相」をあらゆる角度からありのままに観察模写することに細心の注意を傾けていた事は間違いない。
その著書「好古日録」は上下2巻、119項目を収め、多くの図を付している。「古印、古銭、古碑、石人、石室、古書画、文様、古器など、いちいち実物について解説しているところに特色があり、自身で各地を歴訪し、遺物を図写し、拓本をとった努力が結集されてい」る(日本大百科事典)。
このような藤貞幹の「考証」活動は現代の考古学にも通じるものという評価もうなづけるが、藤貞幹のこのような活動は単に「尚古」志向に基づく「考証」活動と、いうよりむしろ、自ら古物の造物主にならんとする、ひいては「歴史」の「創造」をひとり独占せんとする強烈なカルト的熱情に支えられていた、と見るべきかもしれない。というのも藤貞幹はいくつかの「偽造・偽刻」事件を起こしているからである。なかでも貞幹が天明元年(1781)に出した『衝口発』は、本居宣長から手厳しい告発批判をうける事により其の名を今に伝えることになった。宣長は藤貞幹が証拠として採用しいる「或る記」や『日本決釈』が偽書であることを暴き徹底的に藤貞幹に論駁したという。この他、古瓦の偽造や志賀島出土とされる「金印」も藤貞幹とその周辺の人々による贋作であるという説(『金印偽造事件』三浦佑之著 幻冬社新書)まである。
徳川期文芸の研究者、日野龍夫先生は藤貞幹を評して次のような一文を残されている。
「古書画に淫し、古器物に淫し、古代一切に淫した貞幹の偽証には、思うままに支配し得る世界を、いよいよ放恣に、いよいよ執拗に構築する喜びが画されているように思われてならないのである」(「偽証と仮託-古代学者の遊び-」『江戸人とユートピア』朝日選書)。
これらの藤貞幹の『実績』は現代人のわれわれには数年前発覚した「ゴッドハンド」と称された考古学者の「偽造」事件を想起させるが、人並みはずれた鑑識眼と表現力が一種の病理に支えられていたということは技術職たる我々の心に教訓としてとどめ置かねばならないだろう。我々の技術は社会を「支えて」はいるが「司って」はいないということを肝に銘じるべきである。知識や技能そして才能が他者に比べ飛び抜けて抜きん出おり、他を圧倒凌駕する修行が其の能力を齎したからといって、歴史の偽造と簒奪が彼の権利として天から与えられる事は決してないし、彼をして全知全能の神に昇階せしめることは決して無い筈である。

我々が日本の印の源流として教えられて来た「倭(やまと)古印」の発見もこのような藤貞幹の「考証活動」の結果もたらされたものである。私達は藤貞幹の「公私古印譜考証」、印影の木版模刻集である「貞幹摸古印譜』などを印章書体古印体の淵源として教えられて来ているが、それは藤貞幹の膨大な考証活動の一部に過ぎないということは少なくとも京都の印章人である限り、知っておいた方がよい。というのも現代に通じる「古印体」は「古印」の製造法の特徴である「鋳造」に着眼しこの部分を極端にデフォルメしたものであるのに対し、藤貞幹は「古物」を「古物」として蘇らせることにこそ最大の関心を寄せていたからである。
古印が古物として蘇る為には製造法によって生まれる特徴(墨だまりや断線)に表現を特化させる事ではなく、摩滅、風化といった使用感に基づく「さび」「枯れ」といった表現に踏み込まなければならない。藤貞幹の意識は「尚古主義」というより「造物主」たらんとする野心に貫かれた「古物癖」と言ってよいほど執拗で細密な観察に基づいていた。そうであるなら、現代の古印体にはない総合的な「古印のありさま」に其の鑑識眼が向けられていたことは間違いがない。このことは「古印体」が表現するものが何なのか、という事を知る上で欠かせない理解だと思うし「京印章」における「古印体」表現を深めるためには、欠かせる事は出来ない視点となるであろう。
<了>

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京印章・2つの源流~古体派の展開ー高芙蓉と藤貞幹ー(2)~

勿論、京都が先述したような都市の特徴を備えていたからと言って、自動的に高芙蓉の人生の選択が京都に向けられたとは言えない。
そもそも高芙蓉が「尚古」の志向が強かったのは、京都へ入洛する以前かなり早くからのようである。医学の家に生を受けたことと無縁ではあるまい。当時の医学は何よりも儒家の営む所であった訳だから、芙蓉が幼くして四書五経、漢籍古典に親しく触れながら成長したことは疑いない。高芙蓉が「北地」に仕官した際「儒家」として、その任についたのも当然であったと言える。
また、儒家と漢字は大変深い関係にある。中国では官吏登用試験である科挙において膨大な儒家諸家の詳細な古典知識を必要としたが、回答にあたって文字の厳密性が厳しく考査されたこともあり、正俗字書である「干禄字書」、さらに漢字の篆隷草行楷の書体、とりわけ正書体としての篆書、字源と説文など漢字についての様々な参考書が発達した。これらの書物は日本にも禅僧や貿易を通じて入ってきてはいたようだし禅僧や儒家を中心に普及していたようだが、江戸初期に生まれた版元出版制度によってようやく本格的な量産普及されるようになった。同時に秦漢古銅印の印譜も舶載されるようになる。このように江戸時代初期から中期にかけて、印と文字、篆書体に関する資料環境は急速に分厚さと密度を増すことになった。儒家であった高芙蓉が、このような作印環境の変化に敏感でない筈は無い。高芙蓉が生来の「尚古」への感覚的指向性を確固とした製作態度としての「尚古主義」へと高めていった契機はその儒家としての来歴に内包されている。
こうして当時、初期江戸派として「流行」していた明風の「篆刻」は儒家としての高芙蓉には「尚古」性に乏しい「卑俗化」した印であり人間の修養と高尚さからはほど遠い、魅力に乏しいものと映ったであろう。特定の師をもたずひたすら舶載古印譜を独力で学んだ高芙蓉が求めたのは「流行」=「卑俗化」の対局にある精神世界であった。(現代人からすれば「古典」の風さえただよう『明風』も、高芙蓉の生きた時代では「流行の最先端」といってもよいぐらいのニューウェイブであった。)

高芙蓉と20年にわたる交誼を結んだといわれる大典禅師は『菡萏居印譜ノ序』と言う一文で高芙蓉をさして『典実朝儀を悦び尚古風流在り』と詠じ『朝廷の儀制』に詳しいと讃えている(『高芙蓉とその一派』水田紀久)という。この様な『朝廷への関心』の高さは、元来、尚古の性向を強く帯びていた高芙蓉が朝廷を中心とする有職故実の中に『尚古』の展開を求めていた現れと見ることも出来る。
高芙蓉が生を受けた江戸時代中期、学問、文化の潮流に日本独自の変化が生まれた。「国学」の誕生である。「国学」は大嘗祭などの「朝儀」を中心とした「国史」と古事記、万葉集などの「古典」を主な研究対象とし、幕府の中にも「和学」として影響を及ぼし始めていたが、「尚古主義」という角度から「国学」の誕生を見ると、儒学と漢籍古典に親しむことを専らとしていた「尚古主義」から、日本の「国史」「古典」に基づく「尚古主義」として脱皮を計ったものが「国学」という見方もできる。「国学」の誕生によって本朝(日本)に於ける「尚古主義」の再構成、学問のリージョナルな展開がはじまったと言えよう。単なる懐古としての「尚古趣味」が、「尚古主義」として生まれ変わる客観的な契機が生まれつつあったのが高芙蓉の生きた時代だった。
儒家として「尚古」の気風あふれ、これを慶んだ高芙蓉がこの時代の空気を敏感に感得していたであろうことは想像に難くない。

高芙蓉は入洛して間もなく坊城菅原公に「典故」を学んだ,と小石川無量院の墓碑に伝えられている。
坊城菅原公とは東坊城家のことと思われるが、東坊城家は家格は半家(はんけ=御所昇殿を許される公家の中で最下位の家格)ながら紀伝道を家業とし改元の際の「年号勘文(ねんごうげぶん)」をしばしば提出するなど「漢学」の才にたけた家柄であった。「典故」とは漢籍古典の詩句とその注釈を学ぶ学である。そのテキストは「三史」(史記、漢書、後漢書)「文選」「詩経」「論語」など多岐にわたっていたと思われるが「千字文」などもその対象だったかもしれない。いずれにせよ「典故」を学ぶ為には漢字の字源と意味の体系=「説文」がかかせない。漢籍古典に印題をとり、字源と説文に厳格であろうとする高芙蓉のとなえた「尚古主義」とはすなわち篆刻・印刻における「典故」の表現そのものであった。

また、三村竹清翁は「印聖 高芙蓉」という一文のなかで「(高芙蓉には)料理の趣味もあった」として曽学川(曽谷学川=曽之唯、高芙蓉の愛弟子)の主催する「普茶」の会へしばしは出席していたという事蹟を紹介している。「普茶」とは黄檗宗に独特の中国式の精進料理のことである。黄檗宗の本山、万福寺は京都の南、宇治にあり隠元禅師の開山で、代々の住職は中国僧が招かれて就任している。黄檗僧からは篆刻、書画を巧みにする人物が多く輩出している。彼らは、書画篆刻の大陸式の作法を広め当時の表現の世界では最新のトレンドといってもよい存在だった。篆刻においても、その後の日本篆刻の礎になったという評価が高い。また黄檗山万福寺は『鉄眼一切経』と言われる大蔵経の開刻・刊行を行うなど研究・仏典の出版を盛んにおこない仏典研究の先端をゆく『版元』でもあった。「豆腐百珍」なども著した曽谷学川が黄檗式の普茶の会を主催すること自体は「酔狂」に違いなかろうが、高芙蓉ら「古体派」の一統と黄檗僧とその周辺の人々との交流が窺いしれるエピソードであり興味深い。高芙蓉の「尚古」が単なる「懐古趣味」とは一線を画したアクティブな側面をもっていることの現れと受け止めたい。

高芙蓉が最も厚く親交を結んだ人物に池大雅(1723~1776)と韓天寿(1727~1795)がいる。
3人は年齢も近く、ともに書画篆刻に巧みで風雅を愛し文人志向が強かった。ある時、3人が池大雅の庵に会した際、富士山登山を思いたち旅支度もないままその場から出立、行方不明騒ぎを起こした他、立山、白山を共に廻り揃って「三岳道者」を名乗るなど、その意気投合ぶりが窺える。この様な文人墨客との親密な交遊は高芙蓉の「尚古主義」に基づく創作活動に具体的な表現と鑑識の場を提供するものであった。どのような内省的な精神活動も具体的な表現の場なしには成り立ち得ない。
そもそも落款を印す習慣は鎌倉期に禅僧が中心となって日本にもたらしたものとされているが、やがて書、絵画の担い手であった文人墨客にひろく取入れらることで広く世間に普及したものだ。詩、書、画に篆刻は文人の嗜みとして必須の技芸とされ「尚古」の気風はこのような人々の中で表現として具現化され、脈々と受け継がれて来た。
一方、安土桃山時代に現れた狩野派はシステマティックな分業システムと政治力も使った巧みなブランディング戦略で絵画を職(産業)として確立し、同時に一大門閥を形成するが、落款印はそのブランディング戦略を担うアイテムとなる。落款印は単に「表現」としてだけでなく、ブランディングという新たな役割を経済商業活動の中で獲得する。
江戸時代中期頃には明確に文人意識を持った人物が多数出現すると同時に商業活動も活発に行われた訳だが、高芙蓉は江戸期を代表する文人である池大雅、商家でありながら書画篆刻に実績をのこし、それ故に家産が貧する事となった韓天寿と深く交わっている。したがって高芙蓉は「落款」の精神性に大きな価値を見いだしていたのであろうし、そこに自らの表現を展開しようと意識していた。このような交遊は個人的な趣向の一致と言えばそれまでだが、やはりそのような人脈も高芙蓉における俗化とは距離をおいた「尚古」の発現といえるだろう。

われわれ印章業に携わるものはそれが生業だけに「京印章」の説明を求められた際、見た目の形をわかりやすく説明しようとしたり、手彫りだとか機械彫りといった製造技法の説明で事が足りてしまう、と考えがちである。消費者にとってはそれで事足りているのかもしれない。ただ、高芙蓉の歩みをほんの少しだけ覗いてみるだけでも、私達が消費者に結果のみを伝えているに過ぎない事がわかる。そこに至る経過にこそ我々が眼を向けなければ結果の意味はわからないままで終わる。結果の意味など消費者に必要の無い価値なのかもしれないが、印刻者が消費者と同じ価値観で終わってしまっては「自らが印刻する」必要は失せてしまうだろう。消費者に求められるかどうかに関り無く古体派が表現しようとしていた価値を理解しようという努力は印刻者の修行の大切な一部分を為していると心にとどめ置きたいものである。
<続>

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京印章・2つの源流~古体派の展開ー高芙蓉と藤貞幹ー(1)~

前回古体派の誕生とその背景について点描した。
古体派は江戸時代の末期にかけて全国的に広がり、特に京都と並んで江戸においても一派をなし独自の発展を遂げる。
したがってここでは京印章と云う角度から古体派の展開を捉えた時、どのような風景が見えるのか,と言うことに焦点を絞っていくつかの特徴的な事蹟について取り上げたい。

いうまでもなく、古体派の祖と呼べるのが「印聖」と称せられた高芙蓉である。
高芙蓉の出生や人となりについては様々な研究もありここで詳述はしないが、京印章と云う角度から高芙蓉を捉えようとするとどうしても考えなければならないことは、「何故高芙蓉は自身の印道を極めようと志を立てた時、その修行の地として「京都」をえらび、その死の直前まで活動の拠点を京都に据えたのか?」ということである。
高芙蓉は享保7年(1722年)信濃の国高梨で医学の家に生まれた。水田紀久先生の『高芙蓉とその一派』によると、京都へ出るまでに一旦「北地」に仕官するが罷めて江戸に帰りここで、「舶載印譜や碑帳を随喜しひたすらこれを習った」という。特定の人物に師事して篆刻を学んだ訳ではないらしい。この頃、江戸では篆刻の世界で「初期江戸派」といわれる一派が活躍しており「篆刻」はムーブメントの様相を呈していた筈である。にもかかわらず、高芙蓉は江戸を去り京都へ向かう。後に「印聖」とまで称された高芙蓉は一体京都に何を見いだしていたのか?その訳について高芙蓉が直接書き残しているものは殆どないようだ。そこで、当時の京都という都市が日本のなかでどのような位置をしめていたのか、また、高芙蓉はどのような価値観をもって、そんな京都の何にコミットしようとしていたのか、彼が入洛してからどのような人物と交際していたのかを調べることで、高芙蓉が京都に求めていたものの輪郭が浮かび上がってくるのではないだろうか。

まず最初に高芙蓉が生きた時代、京都という都市は日本の中でいかなる地位を占めていたのか、簡単に振り返っておきたい。
江戸、大阪、京都が3都と呼ばれるなかで、京都は特異な特徴を際立たせている都市であった。一言でいうなら、武士の人口構成比が高く幕府政治の中心の江戸と豪商が流通経済の中枢を握っていた大阪といわば東西の2大都市が国家の「身体性」を体現していたのに対し、当時の京都は「学問」のプラットフォームであり、国家の「精神性」を体現する都市であった。
それは、朝廷が政治的機能を失い、その職能を文章道、紀伝道など有職故実に特化していたことと、京都に集中していた本山寺院や大寺院が教学のために大規模な仏教典の図書収蔵、研究を活発に行ったこと、そして朝廷公家や寺社仏閣での儀式、作法、装束、荘厳、など礼式と、それにかかわる「芸事」と「作事」が「茶道」「香道」「華道」など「道」として体系立てられ発達したこと等を背景に形成された。
また、これらの膨大な「知的財産」をファイリングし、集積と拡散を効率的に運用して行く産業として、日本に置ける最初の版元制度による出版が京都で誕生したのも、このような事情に依る所が大きい。元禄時代には既に版元出版の中心は大阪にうつったとされているものの大阪に於ける出版の大半は西鶴、近松らの「人気作家」による「読本」「仮名草子」で、漢籍、古典籍、仏典や啓蒙書、指南書などの今で言う「学術書」の出版の中心は依然として京都であり、神田の古書店誠心堂店主で成蹊大学講師の橋口候之介氏によれば寛政期においてもなお200軒くらいの版元が人口2〜30万程度の京都で活動していたという(個人的なことで恐縮であるが我が家の初代が版木職人であったのはそのような背景もあるのかな、と思う)。1000〜1500人に一件の版元ということだから、さながら出版都市の様相を呈していたわけだ。岩坪充雄先生は「江戸時代の篆書体受容について」という論文の中で18世紀に入ってからでも水戸藩により、心越が1677年持参した篆書体字書「韻府古篆彙選」の翻刻が京都の版元「柳枝軒」でおこなわれた事蹟を紹介しているが、このような専門・学術書の出版に京都の版元の実績が高かったことは間違いの無い事実であろう。
このようにして京都には朝廷まわりや神社仏閣周辺に蓄積された先学の膨大な知識の集積だけでなく、日本全国から希少本、専門書が出版事業を通じて集積された。まさしく江戸時代の「知のプラットフォーム」は京都であった。当時の状況を古くは「田舎学問より京の昼寝」と称されていたこともあるという。田舎で苦学して学問するより京都で昼寝していた方がよっぽど「学問」になると言う訳である。
高芙蓉が求めた「尚古」とは内省的な精神の営みに通じるものだ。「尚古」の精神は高芙蓉にとって、権力や名声、財力とはことなる「精神性」を求める世界であったことはいうまでもない。その「尚古」にかかせない「漢籍」「古典」、これらに日本独自の先例典故の体系を加えた「有職故実」、またこのような知的活動を支えて、その集中と拡散を担った出版産業の隆盛など当時の京都は都市の成り立ちそのものが高芙蓉が求めた「尚古」によって支えられていたのである。

<続>

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京印章・2つの源流〜古体派の登場〜

京印章の第一の源流は先に見た様に平安時代の官印である。
官印は産業として印章が成立するための制度的、技術的、文化的土台を形作った。この大きな枠組みは現代に至るまで根本的には変わっていない。この時代の印章が果たした役割を骨組みにして印章には時代を下るにしたがい新たな役割が付与され制度が整備されてきた。そのありさまは前節でも俯瞰したところだが、いわば「全能の官」として成立した大和朝廷から「政治」「軍事」「宗教」「経済」「文化」等と様々な「権威者」「権力者」が分化・拡大してゆくにしたがいそれぞれの「権力」と「権威」の系にそって印章もまた分化・拡大し、寺社印、僧印、大名印、等々さまざまな階級,階層に印章の発展を見ることとなった。室町戦国期をへて桃山・江戸時代へいたると印章はいよいよ広く太く庶民階級を含む社会の各階層ごとに印の使用がゆきわたる。我々の生活道具として定着している「ハンコ」と現代の「印章文化」はそのような民族の歴史を彩るドラマを背負った「道具」であるということは読者諸兄にもよく理解して頂きたい、と思う。
ところで印の普及の速度に比べ、印の書体は緩やかにしか発展していない。
日本社会の発展とりわけ経済活動の発展とともに「信証の具」として印の使用が拡大・発展し「印の利便性」が格段に高まったのに比べ、江戸時代にみられるような「出版」事業が発生していない時代的制約のもとで、印を使用する主体となるべき人々の教養知識の水準や、民衆における文字の普及が緩やかな速度でしか進展しなかったことがその背景にあると思われる。
とりわけ印章に置ける正書体である「篆書体」の普及は遅々として進まず、鎌倉・室町・戦国・桃山と江戸時代に至るまでは「説文」に関する解説書や「字書」等印章制作の基礎知識に関する資料は殆ど残されていない。このように印の普及のひろがりに比べ、文字造形に関する制作環境は決して充分とはいえない時代が長く続いた。実際、中国の宋、元、明、清から篆刻の法が伝わり名人名手と呼ばれる文人、印人が輩出する一方で、戦国大名や将軍職などの高い身分の人々の印章でさえ文字造形的にみれば首を傾げたくなるような作品も少なくない。このような印の普及と制作環境の進展が必ずしも一致しない状態の中で、印の文字造形の中で後に「俗篆」「雑体篆」とよばれる篆書体の「誤字」や「誤用」が常態化することになった。中にはこれらの「俗篆」を用いた印章を「今体」と称し誇示したり、「呪術性」を強調して文字の誤用や誤字を糊塗するものまで現れる。(本来の「今体」印は唐・宋の印で屈曲や増画をみだりに行い「古体」の印に比べて複雑化させた篆書体の印が多い)
江戸時代の中期にいたりようやく説文にかんする学説や古代印や高名な篆刻者の印譜等がまとまって紹介され篆書体の知識が豊富化するなかで篆書体の字書等も出版されるようになると、このような「俗篆」「今体」の印を粛正し「秦・漢の印」を模範にした印章を復古することで「印章の権威性」や「芸術性」を高めようとする「尚古主義」をとなえる、一種のルネサンス運動が京都を中心とした「篆刻」の世界にあらわれる。ここに、京印章の第二のルーツ、高芙蓉を頂点とする「古体派」が誕生する。
書画、詩経に通じた文人達の嗜みとしてすでに篆刻は一つの芸術領域として確立していたが『徴古印要』等の彼らの「印論」を見ると彼らが「篆刻」という領域に限定すること無く、印章の材と製造彫刻、文字配文、印史、印制等、「印章」全体に通じるものとして「古体」の理念と優位性を説いていることがわかる。とりわけ篆書体にかんして「摹印篆」の優位性とその用法について大部を割いて解説しており、この古体派の「尚古主義」=「印論」がその後の京印章のみならず印章全体に与えた理論的影響は計り知れないものがあるといえよう。

テーマ : 伝統工芸
ジャンル : 学問・文化・芸術

季咸さんによる国立公文書館『太政類典』資料についてのいくつかの指摘について

先日、以下のようなコメントが寄せられた。まずはコメントを頂いた季咸さんにお礼を申しあげたい。コメントありがとうございました。
コメントの指摘は私の今まで書いて来たことの根幹にかかわる指摘なのでもう一度資料も見直し、ご指摘の点について意見を申し上げたい。
なお、私事で恐縮ながら、なかなか資料を検討する時間に制約がありご返答が大変おそくなった。ひとことお詫び申し上げたい。

季咸さんから寄せられたコメントは以下の通りである。
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名前:季咸
タイトル:天皇御璽ノ印影ヲ彫刻ス
ホスト:++++++++++++++++++++
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これはご覧になられましたか?
国立公文書館「天皇御璽ノ印影ヲ彫刻ス」
http://jpimg.digital.archives.go.jp/pdf/S46B0100050000/003407344444.pdf
明治四年、小曾根乾堂石刻印影です。
(印影なのか、印稿なのか、画像では把握できませんが)
石材で三顆、天皇御璽は二顆刻しているようです。
左方の印が間違いなく小曾根の手だとすれば、現在の天皇御璽と同じ字法章法です。
仔細に見れば小曾根刻の璽字下画は小篆の如くやや湾曲しており、現在の璽字は水平です。
また天字左垂がやや内側に蹴込んでいます。
(引用終わり)
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小曽根乾堂御璽を二顆刻している、というのは初耳で、ご指摘の資料中には、季咸さんが示した印影が小曽根の作であるという記述は無い。ここには3つの御璽印影が掲載されているが、一つは『法規分類大全』等の資料で『伝来の古璽』とされてきたもの、一つは明治4年奏刀とされているので小曽根乾堂が刻した石刻の御璽、そして3番目が明治7年安部井櫟堂が刻した御璽と理解されていた訳だが、李咸さんはこの3番目の印影は7年に刻された御璽ではなく、小曽根乾堂が刻したものと主張されている。、なぜ、3番目の御璽を小曽根の作と断定されたのか、その理由は今ひとつ判然としない。私なりに季咸さんの判断の根拠を斟酌た上での意見なので、少々、的外れな事もあろうかと思うが、其の点はどうかご寛容いただき御容赦願いたい。

結論を先に申しあげるとコメントにあるリンク先の印影資料が小曽根乾堂の作であるという指摘はいくつかの理由で同意できない。
ご指摘のあった資料は私も何回もウェブ上で見ているなじみ深い資料だったが、季咸さんのご指摘のお蔭でその性格について改めて深く検討する事が出来た。
ご指摘のあった「太政類典」の「天皇御璽ノ印影ヲ彫刻ス」という記事は「天皇御璽を中心とした天皇陛下内事の印章類の保存と新調の記録」であって、御璽に関して言えば、その新調が『「太政類典」編纂期間(慶応3年(1867)から明治14年(1881))中に『伝来の古璽』以降、2回おこなわれた』という事実を記録したものであって、小曽根の御璽印刻の履歴を記録する目的で編纂されたものではない、と言う事は先ず同意して頂けると思う。
その上で季咸さんの主張は
1)この資料が『慶応3年〜明治4年』の年代記中の資料であること
2)印影を詳細に観察すると現存する安部井櫟堂作の御璽印影と「微妙な違い」らしき点が見受けられる、
という2点の理由により現存する明治7年作の御璽とは別の御璽の印影である可能性があり、もし別の御璽であるとしたらそれは小曽根乾堂が刻した可能性が高いと、いうことことを主張されたのだろう。
ただ、この資料も含めて、明治天皇紀、小曽根の伝記等様々な資料には小曽根乾堂が御璽を2つ制作したと明示する記録はなく、季咸さんの解釈はやや奇矯な印象を受ける。
小曽根が勝手に御璽を2顆作成することはあり得ないことであろうし、季咸さんの主張通り小曽根が2顆の御璽を謹刻していたとすれば安部井の御璽とあわせて短期間に3回の御璽が新調されたことになるわけで、宮内庁なり太政官政府なりがその理由を明示する事無く短期間に3回の御璽新調が下命される、ということ自体が極めて不自然にもおもえる。また、何らかの事情で正式に採用される前に破棄された印ならこの様な公式の記録に掲載する理由が無い。
御璽の新調とはすこぶる天皇の唯一性、神聖性、絶対性の根幹にかかわることで、「王政復古」間もない太政官政府が大義名分も明らかにせぬままいたずらに御璽をもてあそぶかの様な扱いをするとは極めて考えにくい。実際明治4年および7年の御璽新調については縷々その大義名分が記録されているのに、季咸さんがその存在を指摘する「第3の御璽」についてはそのような記録が公式には見当たらないし、小曽根乾堂サイドの文献資料等にも御璽作成について2つの御璽を制作したというような記録もない。

そこでもう一度よくこの資料を検討し、その結果、主に2つの方向から季咸さんの解釈にはどうしても同意できない点を整理してみた。

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まず、前提問題として「太政類典」がどのような資料なのか、と言うことを共有しておきたい。
「太政類典」は国立公文書館の解説によれば『慶応3年(1867)から明治14年(1881)までの太政官日記及び日誌、公文録などから典例条規(先例・法令等)を採録・浄書し、制度、官制、官規、儀制等19部門に分類し、年代順に編集したものです。』ということである。そして資料をひもとくとこの資料が、採録・浄書にあたって「太政類典」と中心に印字された専用の用箋を使用し、この用箋を二つ折り和綴じにして作成されたということがわかる。
以上のことから『太政類典』としての編集作業は明治14年以降の時期になされたものということを共有しておきたい。これは例えば「慶応3年〜明治4年」という年代記中に修められた資料であっても「太政類典」という体裁にまとめられた時期は必ずしも「慶応3年〜明治4年」と一致しない可能性が存在しているということである。
この点は資料成立の経過と性質にかかわることなので是非とも共有しておきたい。

さて季咸さんが示した資料は大きく分けて2つの部分からなる。前半の3つの御璽印影を示した部分と後半の「目録」の文字資料部分である。
李咸さんはコメントの中で『石材で三顆、天皇御璽は二顆刻しているようです。』とおっしゃっているがこれは恐らく後半の目録が前半の印影についての解説、と理解された結果だろう。しかし、それは李咸さんの誤認で、前半の印影部分と、後半の目録はそれぞれ別の目的で別の時期に作成されたものである。

前半掲載の印影を仮に、掲載順に1.2.3.とすると1と2の印影は用箋のほぼ中央上部に押印されその下に材質と寸法、2については材、寸法に加えて奏刀時期が記入されている。3の印影は用箋のほぼ中央に押印されているだけで印についての材、寸法、制作時期についての説明はない。1の印影は銅製で寸法が「2寸7分」、2の印影は石製で「2寸八分」。3の印影については説明がないので材質や正確な寸法がわからない。ただ、2と3の印影はちょうど見開きになっているので3の印影の方が2の印影よりやや大型なのがわかる。2の印影が「方2寸八分」だから比率からすると3の印はだいたい「3寸」ぐらいだろうか。(この記述をした後日、プリントアウトした資料をもとに実測計算してみたが誤差等を勘案しても、ほぼ3寸で間違いなさそうである。これは各種の資料で安部井の刻した印が方3寸とされている数字と一致する)
記述様式が1.2の印影と3の印影では違いすぎるので3の印影は1.2.の印影が用箋に押印された時期や場所あるいは資料作成者が異なっていた、と考えるのが自然である。
後半の目録文書はおそらく「慶応3年〜明治4年」の間に天皇の内事で使用されていた印章の目録と思われる。そのため一つの国璽、2つの御璽の他内覧印その他、天皇陛下内事での事務処理用印章類も掲載されている。
ここには「大日本国璽」「天皇御璽」「天皇御璽」と御璽が2つあることが記されているが「大日本国璽」の印影はここにはない。2つの天皇御璽についてだが最初の御璽は大きさは二寸九分とされているが大日本国璽と同じ「明治4年奏刀」のものなので、明治4年奏刀と明示されている2の「御璽」をさしている、とおもわれる。2つ目の御璽は「2寸7分」で「古篆」と言う記録なので1の御璽であることに間違いはない。したがってこの目録には「方3寸」の3の御璽は掲載されていない。目録に3の印影が掲載されていない、ということは後半の「目録」と前半の「印影」が同時期に作成された物ではなく、目録が作成された後、3の印影が追加掲載されたことを示している。さらに「大日本国璽」の印影がこの資料に無いのはなぜか?と探してみたら「御国璽ヲ彫刻ス」という別項に印影が修められていることがわかった。こちらの印影の記載様式は1.2.の様式と共通しているので目録と1.2及びこの国璽の印影が明治4年迄の時期の御璽国璽印影の基本的な保存様式と思われる。加えていうと、太政類典が和綴じ本であり、3の印影と国璽の印影がともに見開きページ左側にあるので3の印影を違う様式で記録した用箋を追加するとか、あるいは国璽の印影と差し替える、等の作業が容易に行えるということも、指摘しておきたい。
これらの事実から、一連の記事は、明治4年以降にいくつかの資料を再編集する形で現在の「天皇御璽ノ印影ヲ彫刻ス」「御国璽を彫刻ス」の2項目に分割して編纂・採録し直された事をしめしている。
まとめると、季咸さんが示された資料は
1)「1.2及び国璽の印影」と「3の印影」及び「目録」はそれぞれに異なる場所、時、人物によって作成された物である。作成時期は「1.2及び国璽の印影」と「目録」は明治4年以前、「3の印影」は「目録」作成以降の可能性が高い。
2)「1.2.の印影」「3の印影」「目録」は再編集の上「天皇御璽ノ印影ヲ彫刻ス」という項目に編纂された。
「3の印影」は「国璽」の印影と差し替えられるか、「1.2の印影」に後年追加されることによって慶応3年〜明治14年迄の間に2回の御璽新調がなされたことを記録することとなった。
3)従って3の印影が慶応3年〜明治4年の年代記中「天皇御璽ノ印影ヲ彫刻ス」に採録されていることを以てこの印影が明治4年小曽根乾堂の奏刀によって作成された「御璽」であると断定することはできない。

以上の事と明治4年に小曽根乾堂が、明治7年に安部井櫟堂が御璽を彫刻したという周知の事実と総合的に考えて「3の御璽」は安部井の彫刻した御璽印影である、と考えるのが妥当である、と私は考える。

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では、3の印影は安部井櫟堂の刻した御璽の印影と一致しないものなのだろうか?季咸さんの指摘によれば明治7年の安部井が刻した印影とは似てはいるが違うもの、ということになる。

我々の様に印章業を営む者は弁護士の先生等から裁判に提出された複数の「印影」が「同一」印によって得られたものであるか、どうか「鑑定」意見を求められることが有る。実はこの「鑑定」ということが大変難しい作業で大抵の場合「同一印」である、とかあるいは「別の印である」とか「断定」することが極めて困難な場合が多い。裁判等で争いになる複数の印影の違いは殆どの場合、争いになるだけのことはあってかなり微妙な違いについての攻防なのだ。そんな時、我々が提出する「鑑定意見」は複数の印影が一致するところと一致しない所を網羅的に指摘し最終判断は依頼をうけた弁護士なり、裁判所にゆだねる、という形になる。なぜ、「微妙な判断」になるか、というと同一印の判断にあたって、印自体の経年による摩耗や欠損、朱の付き具合、押印の圧力、紙質の違い、押印環境の違い等の条件に印影が大きく左右されることや提出される印影がコピー等の二次的な加工により変形、線質の肥痩などの変化がしばしば起こりうることなどを考慮しなければならないからである。
印章の「復捺性」と言うことについて水野恵先生は『印章篆刻のしおり』(芸艸堂)という書物の「捺印 一、捺し方」と言う項中で次の様に述べている。少し長くなるが引用する。
『今まで印章の復捺性の事をいろいろ申してきましたが、実は印顆の復捺性というのは捺印を正確にしようとするときに要求される条件なのであって、いかに復捺性にすぐれた印顆であっても印顆そのものだけあれば常に「ハンでおしたような」正確な印影が得られるとは限りません。印顆の復捺性がよければ少々ぞんざいに捺してもサインや花押ほどに一度ずつの図像が変化する事はありませんが、本当の復捺性のためには印顆とともに捺印技術と注意がいるものです。(中略)正確な捺印の条件は篆刻の側と捺印の側の両方にあって、その両者があって、その両者が揃わないと満足できないのです(中略)後者にはまた、紙、印辱、印色、捺印者の4つが含まれます・・・』
水野先生はこのように前置きして縷々捺印の技術や条件について解説を述べておられるのだが、水野先生がおっしゃる様に、同じ印顆であっても様々な条件のわずかな違いによって印影の微妙な差が生じる事は常である為、印影の比較のみから同一印であるのか、別の印であるのかと言う判断を行おうとするのであれば出来うる限り多くのサンプルによって比較検討が行われる事が望ましい。しかも、今回の場合、印影の直接的な比較ではなく、「マイクロフィルムによる画像をウェブ上から拾い出した印影」という二重、三重に加工を経た印影、ということも考慮しなくてはならない作業なのでより慎重な比較検討が必要である。
季咸さんがどのような印影と公文書館の印影を比較してその違いを指摘されているのかがコメントからはわからないが、その指摘が限定的、断定的であることから比較的少数のサンプル比較から結論づけておられる印象を受ける。もしそうだとすれば私の経験から申し上げて「別の印顆である」と断定する証拠としては、余りにも心もとない『微妙な違い』を指摘されたにすぎない、と考える。李咸さんが細やかな観察力をお持ちである、ということはご指摘の内容から充分承知できるが、「観察力がある」ということは『歴史資料の考証』という作業の中においては必要な能力であっても、それだけでは充分な作業を保証するものではない。残念ながら李咸さんのコメントはその充分性を満たしているとは言えない。
私は最初李咸さんの指摘を受けて『日本の官印』に掲載された御璽印影と比較してみた。この2点の比較においては確かに李咸さんの指摘には妥当な点を認めることはできる。

ところが明治憲法発布の詔書の御璽印影
Meiji_Kenpo03.jpeg
を見てみると、これは李咸さんが指摘した特徴を有する様にも見える。この詔書は明治22年のものなので当然安部井が刻した御璽のはずである。

他にウェブ上で拾える御璽印影をいくつかあげる。
「歯科医師法御署名原本」http://www.jda.or.jp/park/knowledge/index18.html 

img_18_03.jpg

を見ると、璽の最後の横棒の左右が、微妙に下に曲がっているようにも見える。

露国との講和に関する詔勅http://tamutamu2011.kuronowish.com/nitirokouwa.html

image004.jpg

の印影も、水平というより、微妙にさがってないだろうか。

終戦の詔書http://www.tanami-chinoto.com/5_shusenno_shosho.html

syosyo31.jpg

また『天字左垂がやや内側に蹴込』んでいるようにも見える。

これらの印影は押印年月日からみて、いずれも明治7年安部井が刻した御璽が使用されたものである。
ここに掲げた4つの御璽印影を比較するだけでもそれぞれに微妙な「差」が生じていることがわかるだろう。それは恐らく捺印条件の違いだけでなく撮影条件や捺印者の違いなどを反映しているからである。したがって「印影」から同一印の判定を行う際には「字法」「章法」「刀法」だけでなく様々な条件を合理的かつ総合的に判断しなければならない。
以上のような角度から検討を加えれば李咸さんの主張の根拠に挙げる『印影の違い』は「天皇御璽ノ印影ヲ彫刻ス」に掲載された3の御璽印影が「安部井の刻した御璽ではない」と断じる証拠に足りるだけの「決定的な違い」とはいえない。むしろ様々な押印条件の違いによって生まれる印影差の範囲内の「微妙な違い」に収まっているといえるだろう。ましてや「小曽根の刻した印である」と言う証拠とするにはかなり無理な飛躍がある、と申し上げざるを得ない。
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以上のような訳で私としては従来の主張を撤回するものではない。
明治7年に刻された御璽は安部井櫟堂の作であるし、その謹刻の過程に小曽根乾堂が何らかの作業的関与をしたという『噂』には全く根拠は無かったのである。
ただ、この様な考察の機会を与えて下さった李咸さんには心より御礼申し上げたいと思うし、この先もいろいろ教えを乞いたいと思う。
色々と表現に失礼もあったかとは思うけれども、これも京印章の真実に迫りたいという一念からのことである。行き過ぎ、あるいは舌足らずな点を改めてお詫び申しあげると共にご寛容を冀うものである。

〈了〉
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〈追記〉
平成25年4月18日、思いもかけず季咸さんから私のフェイスブックアカウントにメールを頂戴した。
季咸さんとは昨年秋、上記のコメントを頂いたのをきっかけにフェイスブック上で『友達』登録して頂き大変喜んでいたところであるが、頂いたコメントの内容にはどうしても同意できない問題が含まれていたため、今回のエントリを私としても上げざるをえなかった。
季咸さんは今回いただいたメールの中で『あの天皇御璽の印稿はあとで調べてみたら私の勘違いだったようです。』と『勘違い』を認めて下さりコメント内容を撤回して頂けたようなので、私としても、安堵しているところだ。
季咸さんは書と篆刻の世界で大変な実績を持っておられる方でその博識と鑑識にかけては我々のような市井のはんやが足下に及ぶ者ではないが、京印章の歴史的事実に関る点に誤認があるのなら、格式の上下を超えて、敢えて申し上げなければならないとある種の使命感をもってエントリを上げさせて頂いた次第である。

重ねて非礼をお詫びすると共に季咸さんの勇気ある態度に改めて敬意を表し、深謝申し上げる次第である。

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09/16のツイートまとめ

chikusonnomago

京印章ブログ「京の一刻」更新 小曽根乾堂布字説流布に関する考察~京印章概論補説~7(最終回) みてね。http://t.co/HHMxTdH2
09-16 13:44

小曽根乾堂布字説流布に関する考察~京印章概論補説~7(最終回)


さて、いよいよ天皇御璽国璽の印影そのものを前回考察した古体派の印章観に基づき改めて検討してみよう。

ところで御璽国璽はまぎれもない朱文印である。
「白文印」に印の本源を見いだす古体派の印法をここにそのまま適応する事はできない。
しかし、杜澂の「徴古印要」を良く読めば古体派の神髄は「封泥印」という印の起源に貫く理、すなわち「陰陽一体」の「理」を朱印の印刻に生かす、ところにあったことがよくわかる。
安部井櫟堂はこの「陰陽一体の理」に着眼し、御璽国璽の印刻に挑んだのではないだろうか?
安部井櫟堂の印刻を読み解く為には「陰陽一体」と「逆転の発想」これがキーワードとなる。

「陰陽一体」が表現された白文印の印影から「肉」をそぎ落としていくと、やがてそこには粘土板面に凸部=陽刻となって転生する文字の「骨」が浮かび上がる。この「骨」を朱文の印影として再生させるにはどうすればよいのか?「陰」によって「陽」を生み出すというその順序を「逆転」させればよいのだ。「陽」が「陰」を生み出す印顆を印刻すればよいのである。「陰陽一体」なればこそ「逆転」も可能になるではないか。
こうして安部井はまず、封泥印に起源を発する「白文印」の法を「逆転の発想」によって組み替える。

前回の白文印と粘土板の断面図を思い出してほしい。
この粘土板と白文印の上下を逆転させると以下の様なイメージになる。

朱文印断面1

これで白文印とは朱白逆転したわけだ。今度は↑が彫り出された文字の断面になる。前回指摘した様に章果の文字は「骨」に近い形状、太さとなる筈である。

朱文印断面2

そしてこれを粘土板に押印するとそこには白文を想起させる肉太の文字が凹面となってあらわれる。
こうして「陰陽」を「逆転」した印顆を朱印に用いれば、すなわちそれこそが「古体派の印章観」の発展形として生み出された「朱文印」となる。
もし、御璽国璽が上記のような「発想の逆転」の結果生まれた「朱文印」だとすれば、その印影の文字に「肉付け」を施せばそこに白文の印文が浮かび上がることになる筈である。
実際に試してみよう。

下に示したのが御璽国璽の印影(画質は落としています)。

天皇御璽低画質3
大日本国璽低画質3



まず文字に「肉付け」を施す。古体派による白文はあくまで「封泥印」を意識したものであるから「肉付け」も当然封泥を意識しなければならない。だから、印影の線分が文字の骨になるよう出来るだけ線分の両側に均等に厚みが出る様に注意する。

御璽肉付け2
国璽肉付け2

肉付けした画像を白黒反転する。こうすることで朱文印の印影を骨とする白文印がイメージしやすくなる。
反転した画像が下の画像だ。

御璽白文2
国璽白文2

まったく拙い画像でお恥ずかしい限りだが、拙さは私の未熟の為せる所であるので言わんとする所を汲み取っていただきたい。ここにさびを加えればまさしく古体派の落款作品になるとは言えないだろうか?
「陰陽一体」を突き詰めれば「陰即ち陽」「陽即ち陰」逆もまた真なりということになる。
安部井櫟堂は白文主体の旧来の「古体派」の「陰陽一体」を逆転させることで「官印」という朱文の世界にも「古体派」の「印章観」が展開できることを実践をもって示したのである。
この機会にあらためて小曽根乾堂の朱文作品をいくつか鑑賞してみたが、今まで検討した様な「陰陽一体」の古体派の印章観に基づいて刻されたと思われる朱文作品はなかった。彼の印人としてのたち位置から見ても現在の御璽、国璽の印稿を小曽根乾堂が書いたなどというのは、作品論的にみてもありえない虚構だ、といえる。

最後に「篆刻」と「官印」あるいは「実用印」と言う点についても考察を重ねておこう。
御璽と国璽が安部井櫟堂によって完成される以前にも古体派と呼ばれる人々の手に依って様々な「朱文印」が手がけられてきた。全朱文印について前回検討した様に古体派の理論が全くなかった訳ではないが古体派がその魅力を最大限開花するのはやはり「白文印」と言うフィールドであることに変わりはなかった。また「篆刻」の理論である「古体派」の理論はあくまで「篆刻」と言う世界に於ける「全朱文印」に適応したものであって、「官印」に起源を発する「実用と朱文の世界」にそのまま適用することは不適当なことでもあった。(篆刻と官印あるいは実用印では彫刻製造方法、道具や素材が異なるためその運用方法にそれぞれ独自の違いができるし仕上がりの文字の「肉」の表現が自ずと違って来る)
「白文印」を古印の起源とする「古体派」の印論を表面的になぞっただけではどうしても篆刻作品としての「白文印」中心の作品に偏らざるをえない。畢竟、「朱文印」の世界が「新体派」と呼ばれる人々の独壇場となるのは止むを得ない側面もある。小曽根乾堂はそういう意味で全朱文印に対して「新体派」を代表する印人として古体派とは違ったアプローチが出来る立ち位置にいたことは間違いない。
しかし、小曽根乾堂が明治4年に制作した御璽と国璽は「艸卒ノ刻、字体典雅ナルヲ得ズ」(太政官沿革志 三)として不採用となった。そこには生臭い政治的背景があったとも考えられるが、作品論的に見ても小曽根乾堂には決定的に不足しているものがあった。それは、彼が「印人」として『篆刻』には通じていても『官印』という日本に於ける印史をつらぬくもう一つの大きな流れの外側にいた人物であった、ということである。
日本の官印は言い換えれば印の用途としては「実用印」の流れであり、印の意匠としては「全朱文印」の流れである。小曽根乾堂にはこの2つの流れを見聞することはできても、実践体験することのない「趣味人」という立場で名を為し功を遂げた人物であった。このことは小曽根乾堂が芸術的であり高踏的でありえても「買手」と「売手」の緊張と相互浸透的な関係の中で作品世界を展開するということに不適であったことを示している。
実に小曽根乾堂自身が「官印」制作の経験が不足していることを自ら吐露している。
小曽根乾堂は自らの印刻採用を求めた願書の中で孝明天皇の印章趣味を聞き及び、御璽印刻採用について「西六条の大僧正」に仲介を求める書簡をしたためた、という告白をしている。
小曽根乾堂は印人としての歩みはじめた早い時期から、「官印」制作についての経験が決定的に不足していることを自覚しており、自らの印刻技能のステージを高める上で「官印」へアプローチが欠かせないものとして深く認識していた。そして、その「不足」を小曽根乾堂は埋めることが出来ないまま「明治4年」の御璽制作にあたらなければならなかった。小曽根乾堂を待ち受けていたのは「艸卒ノ刻、字体典雅ナルヲ得ズ」という印人として受認しがたい烙印を発注者である宮内庁おされるという誠に不幸な結末であった。しかし、「売手」と「買手」によって成立する「市場」においてはこのような事態はしばしば起こりうることであったし、まして「買手」が絶対主義的な国家権力であった御璽と国璽の場合、小曽根乾堂には「不服」を申し立て、失地を挽回する手だては殆ど残されてはいなかった。
一方、安部井櫟堂は明治元年に印司として維新太政官政府の官印を多数手がけると同時に市井の「職人」という一面も持ち合わせていたことは先のエントリでも詳しくふれた。安部井の来歴が「官印制作」という「実用と朱文」の世界で豊富な経験に貫かれており、小曽根乾堂の「不足」補ってあまりある力を持っていたことは間違いない。
さらに「古体派」全盛の京都の篆刻界という日本に於ける「印章」のもう一つの大きな流れの中にその身を於いていた安部井櫟堂は「官印」と「古体派」という2つの印章の流れの結節点にその身をおいていた。
そして、安部井櫟堂はその才能をもってこの2つの大きな流れの融合を果たし「古体派」による「実用と朱文」の印として御璽と国璽を制作完成させた。
実践的かつ作品論的に見ても安部井櫟堂が御璽と国璽の制作を通じて「官印」と「古体派」の融合、「実用」と「篆刻」の一体的作品世界の創出という京印章のあらたな地平を開く役割を担ったことはあきらかであろう。

ここに至って「小曽根乾堂が現在の御璽と国璽の印稿を作成した」等と言う言説はいかに書誌学や印章学の大家の言説をもってしても彼らの「願望」を告白しているだけで、歴史資料から実証的にみても、印顆と印影から作品論的にみても「歴史的な事実」として記述することはあきらかな間違いであるとあらためて指摘しなければならない。

現在の御璽と国璽が日本の印章史において、また何よりわれわれ京印章の歴史において開いた地平はわれわれ京都の印章に携わるものが今も目指すべき極点の星として光を放っているのである。

<了>




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08/23のツイートまとめ

chikusonnomago

京印章ブログ「京の一刻」更新 小曽根乾堂布字説流布に関する考察~京印章概論補説~6 みてね。http://t.co/AN9SXNe
08-23 21:17

小曽根乾堂布字説流布に関する考察~京印章概論補説~6

以前コメント欄でカイケツさんから次の書き込みをいただいた。

天皇御璽の配文は、今の実用印や篆刻界になくなった配文方法であるように思います。私見でありますが、文字と輪郭との位置関係は、この摹印篆をうまく利用しているように感じます。』

この点についても私の見解を述べておきたい。
『小曽根乾堂布字説流布に関する考察~京印章概論補説~3』で私は印章の章果の評価基準について私なりの考え方を披露したが「文字の配分」ということを違う角度から見ると「陰陽のバランス」という捉え方もできる。
「方寸の世界」と形容される印章は文字自体がもつ意味や造形のほかに「陽刻(朱文)」にせよ「陰刻(白文)」にせよ「文字」の線分が「陰陽」=印影の朱の部分と白の部分の結界を表しているといえる。
朱白の配分が変化すれば同じ文字を同じ書体で彫り上げても全く違う表情が生まれるのが「印章」のおもしろさでもある。さらに印章の文字は「枠」(白文の場合は印面の形状)とセットになって始めて「印」という「まとまり」が生まれる。活字のコマや刻字看板との違いは「枠」によって生み出されている。「枠」も含めてのまとまり、バランスと言うものを評価して始めて「印」の評価になる。以上の様な意味を込めたものとして「陰陽のバランス」という表現を用いた。

そこで、御璽や国璽は「陰陽のバランス」と云う角度から見たときどのように考察できるのだろうか。
此処まで考察を進めてきた様に御璽、国璽は「古体派」の印論をその彫刻思想に頂いていると思われる諸特徴を表している。従ってこの点でもまず「古体派」がどのような考え方を持っていたのかを見てみたい。
杜澂の著書「徴古印要」巻4文法は以下の様な書き出しで始まる。

『陰陽始て分かれて朱白燦然足り。秦漢の古樸、六朝の変化、其の文其の法を以て徴とするに足れり。いま古印に就いて精細に論ずときは文の関係する所少なきならず、もし私意を以て妄作せば虎を画いて猫となることを免れず。古印前言左に開きて證を照らす。』
印の陰陽こそが朱白を決する印の命である。秦漢の古印にはじまり六朝にいたる文法の変化はそれぞれの時代の印の特徴を明らかにしている。古印の神髄を論じるについて文法抜きには語れない。文法を私し独りよがりな印刻を行なえばそれは虎を描いたつもりが猫に留まる様なものである。ここに古印の文法のいついて明らかにする、云々

このように前言して杜澂はまず『白文法』について述べる。

杜澂はそもそも印の始まりは専ら「白文」(陰刻)で在った事を上げ、その理由をまず示す。即ちそもそも印の始まりは紙に朱印するものではなく封泥のために刻されたものであり、朱泥で紙に押印する印を刻する場合でもこの印の起源とそこに貫く「理」をよく考えなくてはならないと主張する。
『泥封蝋封の上に押すときは文の高く突起する心得にて見るべし。(略)予が刻法は人の見知る如く、印材に墨して摹、印篆の布置は心の配りにて、一面の印を紙と心得、刀を筆と見、点画正斜疎密、何事もなく鉄筆にて書き下すなり。さて書き仕舞いてからよく見定め悪ければ直ちに摩り落とす、人々是を見て兎に角おして見ねば知れぬとて、はやく押したがる人多し。押してから毫釐も手を入れば文死して見るに足らず。是、その蝋上に押す心にて白文を刻すれば斎整も奇樸も彫り上げたる處でこそよしあしもあるべし。総じて印は押して見るものと心得ているが故かく間違いの出来る也。刻上げて押すまで手間を取るは蝋上におす心にて能く能く文形を鑿するなり。字体刀勢をなおすにあらず。蝋上の用と心得、刻すれば印色にて自然と古雅に出来る也。朱にて押す事を忘れ給うべし。兎に角、本をとらまえず枝葉を手本として印色を用ゆるに心付ゆえ肝心の文法布置、刀の死活も見えぬなり。(略)一刀一点も跡からなをる者に非ず。唯、蝋上の用に善し悪しを鑿するのみ。印色へ落れば第二、第三の論なり。朱文や今體には此の論いらぬことなれども箇様に仕付けたること故、今體でも字すえもなく刻上てから見るなれども其の心得、古體の正印とは一向に別なり。伝えぬ人には説かぬ故、皆一様に見らるるも宜なり。』

杜澂は紙に押印する印章でも封泥に押す印刻をおこなう心構えで刻せよ、とのべている。杜澂自身は印材を紙とし鉄筆(刀)を筆と心得て一刀一刻に神経をめぐらせ点画正斜疎密など隅々まで心配りしながら奏刀するものだ、と強調しそうすれば紙に試し押しなどせずとも一見して印の善し悪しの判断がつく、と述べる。また、封泥に押す心構えで刻すれば自ずと朱印として古雅の風を備えた印ができる、として『朱にて押す事を忘れ給うべし。』とまでのべている。なおこの「白文法」は今体の印や朱文印にはあてはまらない、とも述べている。
それでは一体「封泥」印とはいかなる印なのだろうか?その構造を下記の断面図をもとに考えてみる。

白文印断面1

上図の上側が印顆である。丁度矢印の上部の凹が刻された文字の線分をあらわす。印の断面が山型になるのは粘土板に押印されたあと、印を引き抜く際に粘土が印の凹みに食いついて剥がれ落ちたり欠損したりするのを防ぐため、印面の線分は太く印刻底面の線分は細く仕上げるためである。この技法は現代でも陶器の底に作家名を落款するための「陶印」を刻する際に生かされている。

このように刻された印を粘土板に押印すると下図のようになる。

白文印断面2

粘土板から印を引き上げると粘土板に文字が陽刻(矢印の凸部分)となって現れる。
この陽刻となってあらわれる線分は印顆に彫刻された文字の肉がそがれた状態=文字の骨にほぼ近づくということも押さえておいてもらいたい。このようにして印顆に陰刻された文字は粘土板面に陽刻の文字となって生まれ変わる。「陰」即ち「陽」、陰陽合一となった弁証法的世界が凝縮し物象化したものが即ち「印章」の原初の形なのであり杜澂の印章制作を貫く印章観の核心を為しているのである。

杜澂が白文法のなかで述べようとしたことは、粘土板面に現れる「陽刻」文字をイメージしながら、即ち粘土板面にいかに完成度の高い陽刻文字を残せるかを意識して心配りしながら、印顆の陰刻(白文彫刻)に取り組めと言うことだったのである。

以上のように「白文法」についてのべたあと、杜澂は「白文布置法」「三字印文法」「四字印文法」「五字印文法」「那依法」「銅玉文法之別」「蟲篆文法」「朱白相間之法(朱文と白文が一面に共存する印の文法)」「両面朱白相間文法」「子母印朱白相間文法」「六面印文法」と云う具合に印の字数や意匠、形体別に作例も挙げながら細かくケーススタディした後、ようやく「全朱文法」すなわち一面陽刻の印について論をすすめる。その内容は「白文法」で印刻の要諦について「封泥」との関連を指摘しその心構えをくりかえし強調したのに比べると、やや事務的であっさりとしているが「白文」を印の起源として重要視する「古体派」としては仕方がないところかもしれない。
「全朱文法」の半分以上は「朱文印」の起源にかんするいくつかの学説についての検討に費やされる。
「古制の朱文」は漢代以降六朝以前に起こったとして「全朱文法は摸印篆にて少く流動を加え文体深細斎整なるべし、今体の朱文と別なるを照知せよ」と白文法における摸印篆、および今体派の印との違いを簡潔に解説する。
その後、いくつかの製作上の具体的な注意点にふれ、最後に「古体の朱文方、大なる者は八九分、小印ありといえども精彩白文に及ばず。唐以下朱文を宗ぶ。宜なり印制の漸に大なることを。おおよそ整斎清雅、邉にせまらず邉と字と細大を同じうし、唐以下種々の模作に落ちる事なかれ。近頃、危怪(ママ)の朱文を以て古印と称する者あり。古印かくのごとき文法なし。好む所にあって前規を乱ることなかれ。」と「唐印」以降の屈曲を多用し、邉(枠)と文字あるは文字間が近接、接合するような作風を模して「古印」を名乗ることのないよう重々いましめて論をおえている。

杜澂に於いては「朱文印」の起源は重要な問題である。
もし朱文印が例えば「東周」時代までさかのぼるとすれば「封泥」以外の来歴が印章に付随することになり「古印」の正制が封泥のための「陰刻」=白文にあるという古体派の立脚点が失われてしまう。従って杜澂は様々な学説の検討に相応のボリュームを割いたのだろう。
更に唐代以降の全盛を迎える朱文印と「古体」による朱文印の本質的な違いを強調する必要もあった。
すなわち唐代以降の朱文印が「朱印」されることを目的に制作されると理解されるのに対し、古体の朱文印は封泥に供される印という「陰陽」併せ持つ印顆の一側面=「陽」面をあらわすものという理解がなくてはならぬものだと強調する必要があったのだ。古体派にあっては朱印された印影は第一には封泥に押印後あらわれる「高く突起した」文字を彷彿とさせる線分と造形であらねばならない。それは粘土板の上にあらわれる白文印の「骨」に限りなく近づく線分と造形の相似形をしめす「朱文」となる筈である。このように考えると「邉にせまらず邉と字と細大を同じうし」と杜澂が表現する「朱文」の特徴がよく理解できるのではないだろうか。
杜澂の「朱文法」は「白文法」に述べられた、封泥印という印章の誕生に規定される「陰陽合一」の印章観を敷衍したものといえるだろう。
したがって「白文法」と「全朱文法」から導かれる古体派における「陰陽のバランス」のめざす所は白文印刻面においても封泥作業により形成される粘土板上の陽刻面においても完成度の優れた文字造形をめざすことであり、「陰陽のバランス」の優れた印は「陰陽」一対を想起させる印=白文印の印影からは朱文が想起でき、朱文の印影からは白文が想起させられる「陰陽のバランス」をもった印顆なのである。

以上の古体派の印章観をふまえて天皇御璽、大日本国璽を改めて検討してみたい。




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Author:竹邨之孫
京のはんこ屋、6代目。勉強嫌いがたたり今更ながら6代続いた「京印章」とは一体どんなものだったのか、ただいま勉強中。

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