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chikusonnomago京印章ブログ「京の一刻」更新 小曽根乾堂布字説流布に関する考察〜京印章概論補説〜7(最終回) みてね。http://t.co/HHMxTdH2
09-16 13:44
小曽根乾堂布字説流布に関する考察〜京印章概論補説〜7(最終回)
さて、いよいよ天皇御璽と国璽の印影そのものを前回考察した古体派の印章観に基づき改めて検討してみよう。
ところで御璽と国璽はまぎれもない朱文印である。
「白文印」に印の本源を見いだす古体派の印法をここにそのまま適応する事はできない。
しかし、杜澂の「徴古印要」を良く読めば古体派の神髄は「封泥印」という印の起源に貫く理、すなわち「陰陽一体」の「理」を朱印の印刻に生かす、ところにあったことがよくわかる。
安部井櫟堂はこの「陰陽一体の理」に着眼し、御璽、国璽の印刻に挑んだのではないだろうか?
安部井櫟堂の印刻を読み解く為には「陰陽一体」と「逆転の発想」これがキーワードとなる。
「陰陽一体」が表現された白文印の印影から「肉」をそぎ落としていくと、やがてそこには粘土板面に凸部=陽刻となって転生する文字の「骨」が浮かび上がる。この「骨」を朱文の印影として再生させるにはどうすればよいのか?「陰」によって「陽」を生み出すというその順序を「逆転」させればよいのだ。「陽」が「陰」を生み出す印顆を印刻すればよいのである。「陰陽一体」なればこそ「逆転」も可能になるではないか。
こうして安部井はまず、封泥印に起源を発する「白文印」の法を「逆転の発想」によって組み替える。
前回の白文印と粘土板の断面図を思い出してほしい。
この粘土板と白文印の上下を逆転させると以下の様なイメージになる。

これで白文印とは朱白逆転したわけだ。今度は↑が彫り出された文字の断面になる。前回指摘した様に章果の文字は「骨」に近い形状、太さとなる筈である。

そしてこれを粘土板に押印するとそこには白文を想起させる肉太の文字が凹面となってあらわれる。
こうして「陰陽」を「逆転」した印顆を朱印に用いれば、すなわちそれこそが「古体派の印章観」の発展形として生み出された「朱文印」となる。
もし、御璽と国璽が上記のような「発想の逆転」の結果生まれた「朱文印」だとすれば、その印影の文字に「肉付け」を施せばそこに白文の印文が浮かび上がることになる筈である。
実際に試してみよう。
下に示したのが御璽と国璽の印影(画質は落としています)。


まず文字に「肉付け」を施す。古体派による白文はあくまで「封泥印」を意識したものであるから「肉付け」も当然封泥を意識しなければならない。だから、印影の線分が文字の骨になるよう出来るだけ線分の両側に均等に厚みが出る様に注意する。


肉付けした画像を白黒反転する。こうすることで朱文印の印影を骨とする白文印がイメージしやすくなる。
反転した画像が下の画像だ。


まったく拙い画像でお恥ずかしい限りだが、拙さは私の未熟の為せる所であるので言わんとする所を汲み取っていただきたい。ここにさびを加えればまさしく古体派の落款作品になるとは言えないだろうか?
「陰陽一体」を突き詰めれば「陰即ち陽」「陽即ち陰」逆もまた真なりということになる。
安部井櫟堂は白文主体の旧来の「古体派」の「陰陽一体」を逆転させることで「官印」という朱文の世界にも「古体派」の「印章観」が展開できることを実践をもって示したのである。
この機会にあらためて小曽根乾堂の朱文作品をいくつか鑑賞してみたが、今まで検討した様な「陰陽一体」の古体派の印章観に基づいて刻されたと思われる朱文作品はなかった。彼の印人としてのたち位置から見ても現在の御璽、国璽の印稿を小曽根乾堂が書いたなどというのは、作品論的にみてもありえない虚構だ、といえる。
最後に「篆刻」と「官印」あるいは「実用印」と言う点についても考察を重ねておこう。
御璽と国璽が安部井櫟堂によって完成される以前にも古体派と呼ばれる人々の手に依って様々な「朱文印」が手がけられてきた。全朱文印について前回検討した様に古体派の理論が全くなかった訳ではないが古体派がその魅力を最大限開花するのはやはり「白文印」と言うフィールドであることに変わりはなかった。また「篆刻」の理論である「古体派」の理論はあくまで「篆刻」と言う世界に於ける「全朱文印」に適応したものであって、「官印」に起源を発する「実用と朱文の世界」にそのまま適用することは不適当なことでもあった。(篆刻と官印あるいは実用印では彫刻製造方法、道具や素材が異なるためその運用方法にそれぞれ独自の違いができるし仕上がりの文字の「肉」の表現が自ずと違って来る)
「白文印」を古印の起源とする「古体派」の印論を表面的になぞっただけではどうしても篆刻作品としての「白文印」中心の作品に偏らざるをえない。畢竟、「朱文印」の世界が「新体派」と呼ばれる人々の独壇場となるのは止むを得ない側面もある。小曽根乾堂はそういう意味で全朱文印に対して「新体派」を代表する印人として古体派とは違ったアプローチが出来る立ち位置にいたことは間違いない。
しかし、小曽根乾堂が明治4年に制作した御璽と国璽は「艸卒ノ刻、字体典雅ナルヲ得ズ」(太政官沿革志 三)として不採用となった。そこには生臭い政治的背景があったとも考えられるが、作品論的に見ても小曽根乾堂には決定的に不足しているものがあった。それは、彼が「印人」として『篆刻』には通じていても『官印』という日本に於ける印史をつらぬくもう一つの大きな流れの外側にいた人物であった、ということである。
日本の官印は言い換えれば印の用途としては「実用印」の流れであり、印の意匠としては「全朱文印」の流れである。小曽根乾堂にはこの2つの流れを見聞することはできても、実践体験することのない「趣味人」という立場で名を為し功を遂げた人物であった。このことは小曽根乾堂が芸術的であり高踏的でありえても「買手」と「売手」の緊張と相互浸透的な関係の中で作品世界を展開するということに不適であったことを示している。
実に小曽根乾堂自身が「官印」制作の経験が不足していることを自ら吐露している。
小曽根乾堂は自らの印刻採用を求めた願書の中で孝明天皇の印章趣味を聞き及び、御璽印刻採用について「西六条の大僧正」に仲介を求める書簡をしたためた、という告白をしている。
小曽根乾堂は印人としての歩みはじめた早い時期から、「官印」制作についての経験が決定的に不足していることを自覚しており、自らの印刻技能のステージを高める上で「官印」へアプローチが欠かせないものとして深く認識していた。そして、その「不足」を小曽根乾堂は埋めることが出来ないまま「明治4年」の御璽制作にあたらなければならなかった。小曽根乾堂を待ち受けていたのは「艸卒ノ刻、字体典雅ナルヲ得ズ」という印人として受認しがたい烙印を発注者である宮内庁おされるという誠に不幸な結末であった。しかし、「売手」と「買手」によって成立する「市場」においてはこのような事態はしばしば起こりうることであったし、まして「買手」が絶対主義的な国家権力であった御璽と国璽の場合、小曽根乾堂には「不服」を申し立て、失地を挽回する手だては殆ど残されてはいなかった。
一方、安部井櫟堂は明治元年に印司として維新太政官政府の官印を多数手がけると同時に市井の「職人」という一面も持ち合わせていたことは先のエントリでも詳しくふれた。安部井の来歴が「官印制作」という「実用と朱文」の世界で豊富な経験に貫かれており、小曽根乾堂の「不足」補ってあまりある力を持っていたことは間違いない。
さらに「古体派」全盛の京都の篆刻界という日本に於ける「印章」のもう一つの大きな流れの中にその身を於いていた安部井櫟堂は「官印」と「古体派」という2つの印章の流れの結節点にその身をおいていた。
そして、安部井櫟堂はその才能をもってこの2つの大きな流れの融合を果たし「古体派」による「実用と朱文」の印として御璽と国璽を制作完成させた。
実践的かつ作品論的に見ても安部井櫟堂が御璽と国璽の制作を通じて「官印」と「古体派」の融合、「実用」と「篆刻」の一体的作品世界の創出という京印章のあらたな地平を開く役割を担ったことはあきらかであろう。
ここに至って「小曽根乾堂が現在の御璽と国璽の印稿を作成した」等と言う言説はいかに書誌学や印章学の大家の言説をもってしても彼らの「願望」を告白しているだけで、歴史資料から実証的にみても、印顆と印影から作品論的にみても「歴史的な事実」として記述することはあきらかな間違いであるとあらためて指摘しなければならない。
現在の御璽と国璽が日本の印章史において、また何よりわれわれ京印章の歴史において開いた地平はわれわれ京都の印章に携わるものが今も目指すべき極点の星として光を放っているのである。
<了>
08/23のツイートまとめ
chikusonnomago京印章ブログ「京の一刻」更新 小曽根乾堂布字説流布に関する考察〜京印章概論補説〜6 みてね。http://t.co/AN9SXNe
08-23 21:17
小曽根乾堂布字説流布に関する考察〜京印章概論補説〜6
以前コメント欄でカイケツさんから次の書き込みをいただいた。
『天皇御璽の配文は、今の実用印や篆刻界になくなった配文方法であるように思います。私見でありますが、文字と輪郭との位置関係は、この摹印篆をうまく利用しているように感じます。』
この点についても私の見解を述べておきたい。
『小曽根乾堂布字説流布に関する考察〜京印章概論補説〜3』で私は印章の章果の評価基準について私なりの考え方を披露したが「文字の配分」ということを違う角度から見ると「陰陽のバランス」という捉え方もできる。
「方寸の世界」と形容される印章は文字自体がもつ意味や造形のほかに「陽刻(朱文)」にせよ「陰刻(白文)」にせよ「文字」の線分が「陰陽」=印影の朱の部分と白の部分の結界を表しているといえる。
朱白の配分が変化すれば同じ文字を同じ書体で彫り上げても全く違う表情が生まれるのが「印章」のおもしろさでもある。さらに印章の文字は「枠」(白文の場合は印面の形状)とセットになって始めて「印」という「まとまり」が生まれる。活字のコマや刻字看板との違いは「枠」によって生み出されている。「枠」も含めてのまとまり、バランスと言うものを評価して始めて「印」の評価になる。以上の様な意味を込めたものとして「陰陽のバランス」という表現を用いた。
そこで、御璽や国璽は「陰陽のバランス」と云う角度から見たときどのように考察できるのだろうか。
此処まで考察を進めてきた様に御璽、国璽は「古体派」の印論をその彫刻思想に頂いていると思われる諸特徴を表している。従ってこの点でもまず「古体派」がどのような考え方を持っていたのかを見てみたい。
杜澂の著書「徴古印要」巻4文法は以下の様な書き出しで始まる。
『陰陽始て分かれて朱白燦然足り。秦漢の古樸、六朝の変化、其の文其の法を以て徴とするに足れり。いま古印に就いて精細に論ずときは文の関係する所少なきならず、もし私意を以て妄作せば虎を画いて猫となることを免れず。古印前言左に開きて證を照らす。』
印の陰陽こそが朱白を決する印の命である。秦漢の古印にはじまり六朝にいたる文法の変化はそれぞれの時代の印の特徴を明らかにしている。古印の神髄を論じるについて文法抜きには語れない。文法を私し独りよがりな印刻を行なえばそれは虎を描いたつもりが猫に留まる様なものである。ここに古印の文法のいついて明らかにする、云々
このように前言して杜澂はまず『白文法』について述べる。
杜澂はそもそも印の始まりは専ら「白文」(陰刻)で在った事を上げ、その理由をまず示す。即ちそもそも印の始まりは紙に朱印するものではなく封泥のために刻されたものであり、朱泥で紙に押印する印を刻する場合でもこの印の起源とそこに貫く「理」をよく考えなくてはならないと主張する。
『泥封蝋封の上に押すときは文の高く突起する心得にて見るべし。(略)予が刻法は人の見知る如く、印材に墨して摹、印篆の布置は心の配りにて、一面の印を紙と心得、刀を筆と見、点画正斜疎密、何事もなく鉄筆にて書き下すなり。さて書き仕舞いてからよく見定め悪ければ直ちに摩り落とす、人々是を見て兎に角おして見ねば知れぬとて、はやく押したがる人多し。押してから毫釐も手を入れば文死して見るに足らず。是、その蝋上に押す心にて白文を刻すれば斎整も奇樸も彫り上げたる處でこそよしあしもあるべし。総じて印は押して見るものと心得ているが故かく間違いの出来る也。刻上げて押すまで手間を取るは蝋上におす心にて能く能く文形を鑿するなり。字体刀勢をなおすにあらず。蝋上の用と心得、刻すれば印色にて自然と古雅に出来る也。朱にて押す事を忘れ給うべし。兎に角、本をとらまえず枝葉を手本として印色を用ゆるに心付ゆえ肝心の文法布置、刀の死活も見えぬなり。(略)一刀一点も跡からなをる者に非ず。唯、蝋上の用に善し悪しを鑿するのみ。印色へ落れば第二、第三の論なり。朱文や今體には此の論いらぬことなれども箇様に仕付けたること故、今體でも字すえもなく刻上てから見るなれども其の心得、古體の正印とは一向に別なり。伝えぬ人には説かぬ故、皆一様に見らるるも宜なり。』
杜澂は紙に押印する印章でも封泥に押す印刻をおこなう心構えで刻せよ、とのべている。杜澂自身は印材を紙とし鉄筆(刀)を筆と心得て一刀一刻に神経をめぐらせ点画正斜疎密など隅々まで心配りしながら奏刀するものだ、と強調しそうすれば紙に試し押しなどせずとも一見して印の善し悪しの判断がつく、と述べる。また、封泥に押す心構えで刻すれば自ずと朱印として古雅の風を備えた印ができる、として『朱にて押す事を忘れ給うべし。』とまでのべている。なおこの「白文法」は今体の印や朱文印にはあてはまらない、とも述べている。
それでは一体「封泥」印とはいかなる印なのだろうか?その構造を下記の断面図をもとに考えてみる。

上図の上側が印顆である。丁度矢印の上部の凹が刻された文字の線分をあらわす。印の断面が山型になるのは粘土板に押印されたあと、印を引き抜く際に粘土が印の凹みに食いついて剥がれ落ちたり欠損したりするのを防ぐため、印面の線分は太く印刻底面の線分は細く仕上げるためである。この技法は現代でも陶器の底に作家名を落款するための「陶印」を刻する際に生かされている。
このように刻された印を粘土板に押印すると下図のようになる。

粘土板から印を引き上げると粘土板に文字が陽刻(矢印の凸部分)となって現れる。
この陽刻となってあらわれる線分は印顆に彫刻された文字の肉がそがれた状態=文字の骨にほぼ近づくということも押さえておいてもらいたい。このようにして印顆に陰刻された文字は粘土板面に陽刻の文字となって生まれ変わる。「陰」即ち「陽」、陰陽合一となった弁証法的世界が凝縮し物象化したものが即ち「印章」の原初の形なのであり杜澂の印章制作を貫く印章観の核心を為しているのである。
杜澂が白文法のなかで述べようとしたことは、粘土板面に現れる「陽刻」文字をイメージしながら、即ち粘土板面にいかに完成度の高い陽刻文字を残せるかを意識して心配りしながら、印顆の陰刻(白文彫刻)に取り組めと言うことだったのである。
以上のように「白文法」についてのべたあと、杜澂は「白文布置法」「三字印文法」「四字印文法」「五字印文法」「那依法」「銅玉文法之別」「蟲篆文法」「朱白相間之法(朱文と白文が一面に共存する印の文法)」「両面朱白相間文法」「子母印朱白相間文法」「六面印文法」と云う具合に印の字数や意匠、形体別に作例も挙げながら細かくケーススタディした後、ようやく「全朱文法」すなわち一面陽刻の印について論をすすめる。その内容は「白文法」で印刻の要諦について「封泥」との関連を指摘しその心構えをくりかえし強調したのに比べると、やや事務的であっさりとしているが「白文」を印の起源として重要視する「古体派」としては仕方がないところかもしれない。
「全朱文法」の半分以上は「朱文印」の起源にかんするいくつかの学説についての検討に費やされる。
「古制の朱文」は漢代以降六朝以前に起こったとして「全朱文法は摸印篆にて少く流動を加え文体深細斎整なるべし、今体の朱文と別なるを照知せよ」と白文法における摸印篆、および今体派の印との違いを簡潔に解説する。
その後、いくつかの製作上の具体的な注意点にふれ、最後に「古体の朱文方、大なる者は八九分、小印ありといえども精彩白文に及ばず。唐以下朱文を宗ぶ。宜なり印制の漸に大なることを。おおよそ整斎清雅、邉にせまらず邉と字と細大を同じうし、唐以下種々の模作に落ちる事なかれ。近頃、危怪(ママ)の朱文を以て古印と称する者あり。古印かくのごとき文法なし。好む所にあって前規を乱ることなかれ。」と「唐印」以降の屈曲を多用し、邉(枠)と文字あるは文字間が近接、接合するような作風を模して「古印」を名乗ることのないよう重々いましめて論をおえている。
杜澂に於いては「朱文印」の起源は重要な問題である。
もし朱文印が例えば「東周」時代までさかのぼるとすれば「封泥」以外の来歴が印章に付随することになり「古印」の正制が封泥のための「陰刻」=白文にあるという古体派の立脚点が失われてしまう。従って杜澂は様々な学説の検討に相応のボリュームを割いたのだろう。
更に唐代以降の全盛を迎える朱文印と「古体」による朱文印の本質的な違いを強調する必要もあった。
すなわち唐代以降の朱文印が「朱印」されることを目的に制作されると理解されるのに対し、古体の朱文印は封泥に供される印という「陰陽」併せ持つ印顆の一側面=「陽」面をあらわすものという理解がなくてはならぬものだと強調する必要があったのだ。古体派にあっては朱印された印影は第一には封泥に押印後あらわれる「高く突起した」文字を彷彿とさせる線分と造形であらねばならない。それは粘土板の上にあらわれる白文印の「骨」に限りなく近づく線分と造形の相似形をしめす「朱文」となる筈である。このように考えると「邉にせまらず邉と字と細大を同じうし」と杜澂が表現する「朱文」の特徴がよく理解できるのではないだろうか。
杜澂の「朱文法」は「白文法」に述べられた、封泥印という印章の誕生に規定される「陰陽合一」の印章観を敷衍したものといえるだろう。
したがって「白文法」と「全朱文法」から導かれる古体派における「陰陽のバランス」のめざす所は白文印刻面においても封泥作業により形成される粘土板上の陽刻面においても完成度の優れた文字造形をめざすことであり、「陰陽のバランス」の優れた印は「陰陽」一対を想起させる印=白文印の印影からは朱文が想起でき、朱文の印影からは白文が想起させられる「陰陽のバランス」をもった印顆なのである。
以上の古体派の印章観をふまえて天皇御璽、大日本国璽を改めて検討してみたい。
『天皇御璽の配文は、今の実用印や篆刻界になくなった配文方法であるように思います。私見でありますが、文字と輪郭との位置関係は、この摹印篆をうまく利用しているように感じます。』
この点についても私の見解を述べておきたい。
『小曽根乾堂布字説流布に関する考察〜京印章概論補説〜3』で私は印章の章果の評価基準について私なりの考え方を披露したが「文字の配分」ということを違う角度から見ると「陰陽のバランス」という捉え方もできる。
「方寸の世界」と形容される印章は文字自体がもつ意味や造形のほかに「陽刻(朱文)」にせよ「陰刻(白文)」にせよ「文字」の線分が「陰陽」=印影の朱の部分と白の部分の結界を表しているといえる。
朱白の配分が変化すれば同じ文字を同じ書体で彫り上げても全く違う表情が生まれるのが「印章」のおもしろさでもある。さらに印章の文字は「枠」(白文の場合は印面の形状)とセットになって始めて「印」という「まとまり」が生まれる。活字のコマや刻字看板との違いは「枠」によって生み出されている。「枠」も含めてのまとまり、バランスと言うものを評価して始めて「印」の評価になる。以上の様な意味を込めたものとして「陰陽のバランス」という表現を用いた。
そこで、御璽や国璽は「陰陽のバランス」と云う角度から見たときどのように考察できるのだろうか。
此処まで考察を進めてきた様に御璽、国璽は「古体派」の印論をその彫刻思想に頂いていると思われる諸特徴を表している。従ってこの点でもまず「古体派」がどのような考え方を持っていたのかを見てみたい。
杜澂の著書「徴古印要」巻4文法は以下の様な書き出しで始まる。
『陰陽始て分かれて朱白燦然足り。秦漢の古樸、六朝の変化、其の文其の法を以て徴とするに足れり。いま古印に就いて精細に論ずときは文の関係する所少なきならず、もし私意を以て妄作せば虎を画いて猫となることを免れず。古印前言左に開きて證を照らす。』
印の陰陽こそが朱白を決する印の命である。秦漢の古印にはじまり六朝にいたる文法の変化はそれぞれの時代の印の特徴を明らかにしている。古印の神髄を論じるについて文法抜きには語れない。文法を私し独りよがりな印刻を行なえばそれは虎を描いたつもりが猫に留まる様なものである。ここに古印の文法のいついて明らかにする、云々
このように前言して杜澂はまず『白文法』について述べる。
杜澂はそもそも印の始まりは専ら「白文」(陰刻)で在った事を上げ、その理由をまず示す。即ちそもそも印の始まりは紙に朱印するものではなく封泥のために刻されたものであり、朱泥で紙に押印する印を刻する場合でもこの印の起源とそこに貫く「理」をよく考えなくてはならないと主張する。
『泥封蝋封の上に押すときは文の高く突起する心得にて見るべし。(略)予が刻法は人の見知る如く、印材に墨して摹、印篆の布置は心の配りにて、一面の印を紙と心得、刀を筆と見、点画正斜疎密、何事もなく鉄筆にて書き下すなり。さて書き仕舞いてからよく見定め悪ければ直ちに摩り落とす、人々是を見て兎に角おして見ねば知れぬとて、はやく押したがる人多し。押してから毫釐も手を入れば文死して見るに足らず。是、その蝋上に押す心にて白文を刻すれば斎整も奇樸も彫り上げたる處でこそよしあしもあるべし。総じて印は押して見るものと心得ているが故かく間違いの出来る也。刻上げて押すまで手間を取るは蝋上におす心にて能く能く文形を鑿するなり。字体刀勢をなおすにあらず。蝋上の用と心得、刻すれば印色にて自然と古雅に出来る也。朱にて押す事を忘れ給うべし。兎に角、本をとらまえず枝葉を手本として印色を用ゆるに心付ゆえ肝心の文法布置、刀の死活も見えぬなり。(略)一刀一点も跡からなをる者に非ず。唯、蝋上の用に善し悪しを鑿するのみ。印色へ落れば第二、第三の論なり。朱文や今體には此の論いらぬことなれども箇様に仕付けたること故、今體でも字すえもなく刻上てから見るなれども其の心得、古體の正印とは一向に別なり。伝えぬ人には説かぬ故、皆一様に見らるるも宜なり。』
杜澂は紙に押印する印章でも封泥に押す印刻をおこなう心構えで刻せよ、とのべている。杜澂自身は印材を紙とし鉄筆(刀)を筆と心得て一刀一刻に神経をめぐらせ点画正斜疎密など隅々まで心配りしながら奏刀するものだ、と強調しそうすれば紙に試し押しなどせずとも一見して印の善し悪しの判断がつく、と述べる。また、封泥に押す心構えで刻すれば自ずと朱印として古雅の風を備えた印ができる、として『朱にて押す事を忘れ給うべし。』とまでのべている。なおこの「白文法」は今体の印や朱文印にはあてはまらない、とも述べている。
それでは一体「封泥」印とはいかなる印なのだろうか?その構造を下記の断面図をもとに考えてみる。

上図の上側が印顆である。丁度矢印の上部の凹が刻された文字の線分をあらわす。印の断面が山型になるのは粘土板に押印されたあと、印を引き抜く際に粘土が印の凹みに食いついて剥がれ落ちたり欠損したりするのを防ぐため、印面の線分は太く印刻底面の線分は細く仕上げるためである。この技法は現代でも陶器の底に作家名を落款するための「陶印」を刻する際に生かされている。
このように刻された印を粘土板に押印すると下図のようになる。

粘土板から印を引き上げると粘土板に文字が陽刻(矢印の凸部分)となって現れる。
この陽刻となってあらわれる線分は印顆に彫刻された文字の肉がそがれた状態=文字の骨にほぼ近づくということも押さえておいてもらいたい。このようにして印顆に陰刻された文字は粘土板面に陽刻の文字となって生まれ変わる。「陰」即ち「陽」、陰陽合一となった弁証法的世界が凝縮し物象化したものが即ち「印章」の原初の形なのであり杜澂の印章制作を貫く印章観の核心を為しているのである。
杜澂が白文法のなかで述べようとしたことは、粘土板面に現れる「陽刻」文字をイメージしながら、即ち粘土板面にいかに完成度の高い陽刻文字を残せるかを意識して心配りしながら、印顆の陰刻(白文彫刻)に取り組めと言うことだったのである。
以上のように「白文法」についてのべたあと、杜澂は「白文布置法」「三字印文法」「四字印文法」「五字印文法」「那依法」「銅玉文法之別」「蟲篆文法」「朱白相間之法(朱文と白文が一面に共存する印の文法)」「両面朱白相間文法」「子母印朱白相間文法」「六面印文法」と云う具合に印の字数や意匠、形体別に作例も挙げながら細かくケーススタディした後、ようやく「全朱文法」すなわち一面陽刻の印について論をすすめる。その内容は「白文法」で印刻の要諦について「封泥」との関連を指摘しその心構えをくりかえし強調したのに比べると、やや事務的であっさりとしているが「白文」を印の起源として重要視する「古体派」としては仕方がないところかもしれない。
「全朱文法」の半分以上は「朱文印」の起源にかんするいくつかの学説についての検討に費やされる。
「古制の朱文」は漢代以降六朝以前に起こったとして「全朱文法は摸印篆にて少く流動を加え文体深細斎整なるべし、今体の朱文と別なるを照知せよ」と白文法における摸印篆、および今体派の印との違いを簡潔に解説する。
その後、いくつかの製作上の具体的な注意点にふれ、最後に「古体の朱文方、大なる者は八九分、小印ありといえども精彩白文に及ばず。唐以下朱文を宗ぶ。宜なり印制の漸に大なることを。おおよそ整斎清雅、邉にせまらず邉と字と細大を同じうし、唐以下種々の模作に落ちる事なかれ。近頃、危怪(ママ)の朱文を以て古印と称する者あり。古印かくのごとき文法なし。好む所にあって前規を乱ることなかれ。」と「唐印」以降の屈曲を多用し、邉(枠)と文字あるは文字間が近接、接合するような作風を模して「古印」を名乗ることのないよう重々いましめて論をおえている。
杜澂に於いては「朱文印」の起源は重要な問題である。
もし朱文印が例えば「東周」時代までさかのぼるとすれば「封泥」以外の来歴が印章に付随することになり「古印」の正制が封泥のための「陰刻」=白文にあるという古体派の立脚点が失われてしまう。従って杜澂は様々な学説の検討に相応のボリュームを割いたのだろう。
更に唐代以降の全盛を迎える朱文印と「古体」による朱文印の本質的な違いを強調する必要もあった。
すなわち唐代以降の朱文印が「朱印」されることを目的に制作されると理解されるのに対し、古体の朱文印は封泥に供される印という「陰陽」併せ持つ印顆の一側面=「陽」面をあらわすものという理解がなくてはならぬものだと強調する必要があったのだ。古体派にあっては朱印された印影は第一には封泥に押印後あらわれる「高く突起した」文字を彷彿とさせる線分と造形であらねばならない。それは粘土板の上にあらわれる白文印の「骨」に限りなく近づく線分と造形の相似形をしめす「朱文」となる筈である。このように考えると「邉にせまらず邉と字と細大を同じうし」と杜澂が表現する「朱文」の特徴がよく理解できるのではないだろうか。
杜澂の「朱文法」は「白文法」に述べられた、封泥印という印章の誕生に規定される「陰陽合一」の印章観を敷衍したものといえるだろう。
したがって「白文法」と「全朱文法」から導かれる古体派における「陰陽のバランス」のめざす所は白文印刻面においても封泥作業により形成される粘土板上の陽刻面においても完成度の優れた文字造形をめざすことであり、「陰陽のバランス」の優れた印は「陰陽」一対を想起させる印=白文印の印影からは朱文が想起でき、朱文の印影からは白文が想起させられる「陰陽のバランス」をもった印顆なのである。
以上の古体派の印章観をふまえて天皇御璽、大日本国璽を改めて検討してみたい。
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07-10 14:07
小曽根乾堂布字説流布に関する考察〜京印章概論補説〜5
御璽、国璽が一見して「実用印」の風合いに似ている印象をいだかせる事は前回にもふれた。
しかし、実用印の特徴ともいえる「骨」の姿を忠実に表す線分=起筆から終筆まで線分の太さ維持し専ら「刻蝕」が表現の主たる部分をしめる線分とは幾分趣が違う事を指摘しておかねばねるまい。
起筆と終筆の線分の太さに対して線分中程の太さがやや太く表現されているのだ。このため「骨」は「方正質直」「方平正直」でありながら文字全体に控えめながら丸みが生まれ柔らかな雰囲気を醸し出している。
熊本大学の神野雄二先生は論文『日本印史とその特色』の中で中国の篆刻作品と我が国の篆刻、とりわけ高芙蓉以降の篆刻を比較検討しその様式美の特徴をいくつか上げているが「線分」について次の様な指摘をしている。
「我が国の印は中国のそれと比較すると形は不均衡で線は揺らぎを持ち(これは中国の浙派とは相違し、中太りの様相を呈す)、空間を大きく空けるのがその特質であろう」
我々の一般人はどうしても「揺らぎ」に眼を奪われがちで「揺らぎ」を支える土台に「線分の中太り」が在る事に気づかない事が多い。さすがに専門の研究者である神野先生は大切な点を指摘されている、と思う。そしてもう一つ、この指摘に付け加えるならこの「中太り」という特質はいわゆる「古体派」全盛の高芙蓉から幕末にかけての作品に顕著な特質でもある。
そして、この特質は御璽と国璽にも当てはまる。
御璽と国璽は、実用印を想起させる様な整った刻蝕で線分のエッジを際立たせながらも微妙に起・終筆と中程で「肉」の厚みが変化し「中太り」の様相を示すのである。
実はこの「中太り」現象にはちゃんとした訳が在る、と私は考えている。実際に安部井櫟堂がどのような意識を働かせてこのような「肉」の文字表現になったのかは勿論本人に問うてみるしか無いし、それが叶わぬ現代に於いては周辺の状況証拠を積み上げるしか無い訳ではあるけれども・・・.その答えのヒントは、やはり杜澂の著書「徴古印要」にある。
結論からいうと、篆書の「中太り」現象、それは「古体派」の提唱する摹印篆の刻法にかかわり、これを修めれば必然的に生まれる「古体派」の摹印篆独特の風合いである、ということができるのである。
「徴古印要」巻1では摹印篆の歴史や特徴について繰り返し述べているがその筆法についても詳しく述べている。巻1『増減法』のなかで、筆画の増減、筆法について次の様な記述が見える。
『(略)王兆雲の説にも甘氏の説にも摹印篆を論ずるには隷に近し隷と通ずなどと説き、又、其の本づく所なければ杜撰となることを説きたれども皆含蓄して漢隷に法を取れとして云うは是、印篆の心、信にして秘蔵せしことと見えたり。(略)印篆の隷法によるということは誠に摹印の秘訣なり』
また、次の様な指摘もしている。
『摹印篆は隷書の燕尾なき也とて、みだりに変隷の異体を取りて印に刻し漢篆なりと云はば、却って古印の害をなすべし』
此処で杜澂は摹印篆の増減法について述べているのだが摹印篆と隷書との共通点について指摘をしている。隷書体は篆書体を木簡や竹簡に筆記するために簡略化させ生まれた書体であるが、篆書体を印刻するにあたり筆画の増減をどのように行なうかは隷書体を学ぶ事でその秘訣を見いだせると指摘しているのである。そして摹印篆は単純に隷書体の「燕尾」を取り除いただけの「変隷」にとどめてはいけない事も強く戒めている。
ここでの杜澂の関心は勿論筆画の増減にあることは間違いないが、隷書の筆法・運筆を無視している訳では当然ない。
それは、杜澂自身の体験として雪庵禅師に「隷書の法」を学んだことを述べている次の記述からも伺える。隷書を学ぶとは即ち隷書の筆法を学ぶことなのである。
『(略)集古印をえて始めて摹印篆を疑わず。されども其の本、皆近来の重刻にて、字画甚だ危陋にして法をとりがたし。かつ、渉猟に不便にして又、姦本故、仲仲、字かづも足りあはず、時に雪庵師に付いて始めて漢隷に就いて法をとることを受けたり。(略)嗚呼、雪公は何くより伝えられしにや知らね度も怡軒の説は決して知られざりしが其の意用ゆることの符号せしこと誠に重んずべし。』
摹印篆に関するテキストが不十分な環境であった杜澂は雪庵禅師に師事して漢隷を学ぶ。後に怡軒の摹印篆についての印学を学ぶなかで摹印篆についての印学を修めていない雪庵から学んだ『隷法』との共通点について改めて再発見するわけである。
さらに巻4『白文法』のなかで「予が刻法は人の見知る如く、印材に墨して摹、印篆の布置は心の配りにて、一面の印を紙と心得、刀を筆と見、点画正斜疎密、何事もなく鉄筆にて書き下すなり」とのべ筆法を刀法に生かす事を強調している。古体派においては、刀によって筆意の生きるごとく彫り上げることが何よりも大事であり当然、隷書の筆意がいかに生まれるかという「隷法」の習得が摹印篆の刻法に於いても重要テーマとなるわけである。
それでは隷書の筆法とはいかなるものだろうか。
筆画の増減については実際の隷書と篆書の比較検討でわかるが文字個別の事であるので此処では省く。問題はその用筆・運筆である。明治大学講師で書家の遠藤昌弘先生は『漢字の五体』という小論の中で隷書と篆書の比較をしながら隷書の運筆・用筆の特徴について次の様なまとめをおこなっている。
まず共通点である。
1)全ての点画が逆入・蔵鋒(ぎゃくにゅう・ぞうほう=起筆を逆入【線分の進行方向とは逆方向から筆の穂先を接地させる】して筆先をあらわさない【丁度線分の「骨」にそって筆の穂先が移動する】。筆先が筆画の中心を通って中鋒(ちゅうほう)となり側筆になることはない。
2)運筆は起筆、送筆、収筆とも一定の筆力、一定の早さでおこない変化しない
3)文字構造は横画が水平をとり、縦画が垂直をとって原則として左右対称になる
また、異なる点として
1)隷書には原則的に一字の中で、一画、波磔(はたく=杜澂のいう「燕尾」のこと。収筆最後に力を入れて払い出す特徴的な筆意)が入る。篆書にはこれはない。
2)隷書体は転折(横画から縦画へ連続して線分を折り曲げる筆画)は横画と縦画を別々に書くので篆書体で肩を丸める所は四角く角ばる。
そこで御璽国璽の印影をもう一度眺めてみるとこの「中太り」の線分が示しているのは「隷書」の筆法である事がわかる。波磔こそ摹印篆の印文にはないものの起筆収筆を貫く『逆入・蔵鋒(中鋒)』の運筆表現はまさしく「中太り」の線質表現となる。
さらに、転折の箇所が横画縦画にはっきり分節している様子が手に取る様にわかりここでも隷書の法を取入れている事が理解できる。ここで遠藤先生の指摘する「篆書の転折」が何故、摹印篆の刻法に取り入られなかったのかが疑問として残る。おそらく是は時代的な制約だろうと思われる。篆書体が「書」としてその地位を確立するのは事実上、呉昌碩以後のことである。清末から中華民国にかけてのことだ。従ってそれまでの篆書による文字表現は専ら印刻あるいは碑文彫刻というフィールドに限定されていた。当然、「古体派」が活躍した江戸時代末期は印刻の中にのみ篆書表現があり、遠藤先生がいう「篆書の書法」と言うものは確立していなかった。一方、隷書は書をはじめとして刻字、印刻の世界で広く取入れられていたわけで、「古体派」の人々が摹印篆の印刻に隷書の書法を生かそうとした時、当然、隷書体に於ける転折の表現法も摹印篆の刻法に生かされたのだろうと推測される。
以上検討してきた様に御璽国璽の「肉」のありさまから我々が読み解くべき解はここに彫り出された摹印篆こそまさしく「古体派」が提唱した摹印篆の刻法を忠実に映し出したものであるということなのだ。
御璽、国璽の印影が示す事はまさしく「古体派」の安部井櫟堂がその全霊全知識を傾けて京都に於ける古体派の全てを結実させた作品であったのである。したがって、「小曽根乾堂の印稿」という噂は作品の示す特徴からも否定されるべき事柄だったのである。
しかし、実用印の特徴ともいえる「骨」の姿を忠実に表す線分=起筆から終筆まで線分の太さ維持し専ら「刻蝕」が表現の主たる部分をしめる線分とは幾分趣が違う事を指摘しておかねばねるまい。
起筆と終筆の線分の太さに対して線分中程の太さがやや太く表現されているのだ。このため「骨」は「方正質直」「方平正直」でありながら文字全体に控えめながら丸みが生まれ柔らかな雰囲気を醸し出している。
熊本大学の神野雄二先生は論文『日本印史とその特色』の中で中国の篆刻作品と我が国の篆刻、とりわけ高芙蓉以降の篆刻を比較検討しその様式美の特徴をいくつか上げているが「線分」について次の様な指摘をしている。
「我が国の印は中国のそれと比較すると形は不均衡で線は揺らぎを持ち(これは中国の浙派とは相違し、中太りの様相を呈す)、空間を大きく空けるのがその特質であろう」
我々の一般人はどうしても「揺らぎ」に眼を奪われがちで「揺らぎ」を支える土台に「線分の中太り」が在る事に気づかない事が多い。さすがに専門の研究者である神野先生は大切な点を指摘されている、と思う。そしてもう一つ、この指摘に付け加えるならこの「中太り」という特質はいわゆる「古体派」全盛の高芙蓉から幕末にかけての作品に顕著な特質でもある。
そして、この特質は御璽と国璽にも当てはまる。
御璽と国璽は、実用印を想起させる様な整った刻蝕で線分のエッジを際立たせながらも微妙に起・終筆と中程で「肉」の厚みが変化し「中太り」の様相を示すのである。
実はこの「中太り」現象にはちゃんとした訳が在る、と私は考えている。実際に安部井櫟堂がどのような意識を働かせてこのような「肉」の文字表現になったのかは勿論本人に問うてみるしか無いし、それが叶わぬ現代に於いては周辺の状況証拠を積み上げるしか無い訳ではあるけれども・・・.その答えのヒントは、やはり杜澂の著書「徴古印要」にある。
結論からいうと、篆書の「中太り」現象、それは「古体派」の提唱する摹印篆の刻法にかかわり、これを修めれば必然的に生まれる「古体派」の摹印篆独特の風合いである、ということができるのである。
「徴古印要」巻1では摹印篆の歴史や特徴について繰り返し述べているがその筆法についても詳しく述べている。巻1『増減法』のなかで、筆画の増減、筆法について次の様な記述が見える。
『(略)王兆雲の説にも甘氏の説にも摹印篆を論ずるには隷に近し隷と通ずなどと説き、又、其の本づく所なければ杜撰となることを説きたれども皆含蓄して漢隷に法を取れとして云うは是、印篆の心、信にして秘蔵せしことと見えたり。(略)印篆の隷法によるということは誠に摹印の秘訣なり』
また、次の様な指摘もしている。
『摹印篆は隷書の燕尾なき也とて、みだりに変隷の異体を取りて印に刻し漢篆なりと云はば、却って古印の害をなすべし』
此処で杜澂は摹印篆の増減法について述べているのだが摹印篆と隷書との共通点について指摘をしている。隷書体は篆書体を木簡や竹簡に筆記するために簡略化させ生まれた書体であるが、篆書体を印刻するにあたり筆画の増減をどのように行なうかは隷書体を学ぶ事でその秘訣を見いだせると指摘しているのである。そして摹印篆は単純に隷書体の「燕尾」を取り除いただけの「変隷」にとどめてはいけない事も強く戒めている。
ここでの杜澂の関心は勿論筆画の増減にあることは間違いないが、隷書の筆法・運筆を無視している訳では当然ない。
それは、杜澂自身の体験として雪庵禅師に「隷書の法」を学んだことを述べている次の記述からも伺える。隷書を学ぶとは即ち隷書の筆法を学ぶことなのである。
『(略)集古印をえて始めて摹印篆を疑わず。されども其の本、皆近来の重刻にて、字画甚だ危陋にして法をとりがたし。かつ、渉猟に不便にして又、姦本故、仲仲、字かづも足りあはず、時に雪庵師に付いて始めて漢隷に就いて法をとることを受けたり。(略)嗚呼、雪公は何くより伝えられしにや知らね度も怡軒の説は決して知られざりしが其の意用ゆることの符号せしこと誠に重んずべし。』
摹印篆に関するテキストが不十分な環境であった杜澂は雪庵禅師に師事して漢隷を学ぶ。後に怡軒の摹印篆についての印学を学ぶなかで摹印篆についての印学を修めていない雪庵から学んだ『隷法』との共通点について改めて再発見するわけである。
さらに巻4『白文法』のなかで「予が刻法は人の見知る如く、印材に墨して摹、印篆の布置は心の配りにて、一面の印を紙と心得、刀を筆と見、点画正斜疎密、何事もなく鉄筆にて書き下すなり」とのべ筆法を刀法に生かす事を強調している。古体派においては、刀によって筆意の生きるごとく彫り上げることが何よりも大事であり当然、隷書の筆意がいかに生まれるかという「隷法」の習得が摹印篆の刻法に於いても重要テーマとなるわけである。
それでは隷書の筆法とはいかなるものだろうか。
筆画の増減については実際の隷書と篆書の比較検討でわかるが文字個別の事であるので此処では省く。問題はその用筆・運筆である。明治大学講師で書家の遠藤昌弘先生は『漢字の五体』という小論の中で隷書と篆書の比較をしながら隷書の運筆・用筆の特徴について次の様なまとめをおこなっている。
まず共通点である。
1)全ての点画が逆入・蔵鋒(ぎゃくにゅう・ぞうほう=起筆を逆入【線分の進行方向とは逆方向から筆の穂先を接地させる】して筆先をあらわさない【丁度線分の「骨」にそって筆の穂先が移動する】。筆先が筆画の中心を通って中鋒(ちゅうほう)となり側筆になることはない。
2)運筆は起筆、送筆、収筆とも一定の筆力、一定の早さでおこない変化しない
3)文字構造は横画が水平をとり、縦画が垂直をとって原則として左右対称になる
また、異なる点として
1)隷書には原則的に一字の中で、一画、波磔(はたく=杜澂のいう「燕尾」のこと。収筆最後に力を入れて払い出す特徴的な筆意)が入る。篆書にはこれはない。
2)隷書体は転折(横画から縦画へ連続して線分を折り曲げる筆画)は横画と縦画を別々に書くので篆書体で肩を丸める所は四角く角ばる。
そこで御璽国璽の印影をもう一度眺めてみるとこの「中太り」の線分が示しているのは「隷書」の筆法である事がわかる。波磔こそ摹印篆の印文にはないものの起筆収筆を貫く『逆入・蔵鋒(中鋒)』の運筆表現はまさしく「中太り」の線質表現となる。
さらに、転折の箇所が横画縦画にはっきり分節している様子が手に取る様にわかりここでも隷書の法を取入れている事が理解できる。ここで遠藤先生の指摘する「篆書の転折」が何故、摹印篆の刻法に取り入られなかったのかが疑問として残る。おそらく是は時代的な制約だろうと思われる。篆書体が「書」としてその地位を確立するのは事実上、呉昌碩以後のことである。清末から中華民国にかけてのことだ。従ってそれまでの篆書による文字表現は専ら印刻あるいは碑文彫刻というフィールドに限定されていた。当然、「古体派」が活躍した江戸時代末期は印刻の中にのみ篆書表現があり、遠藤先生がいう「篆書の書法」と言うものは確立していなかった。一方、隷書は書をはじめとして刻字、印刻の世界で広く取入れられていたわけで、「古体派」の人々が摹印篆の印刻に隷書の書法を生かそうとした時、当然、隷書体に於ける転折の表現法も摹印篆の刻法に生かされたのだろうと推測される。
以上検討してきた様に御璽国璽の「肉」のありさまから我々が読み解くべき解はここに彫り出された摹印篆こそまさしく「古体派」が提唱した摹印篆の刻法を忠実に映し出したものであるということなのだ。
御璽、国璽の印影が示す事はまさしく「古体派」の安部井櫟堂がその全霊全知識を傾けて京都に於ける古体派の全てを結実させた作品であったのである。したがって、「小曽根乾堂の印稿」という噂は作品の示す特徴からも否定されるべき事柄だったのである。
06/28のツイートまとめ
chikusonnomago京印章ブログ「京の一刻」更新 小曽根乾堂布字説流布に関する考察〜京印章概論補説〜4 http://t.co/1kVs8uD 読んでね。
06-28 21:43
小曽根乾堂布字説流布に関する考察〜京印章概論補説〜4
御璽と国璽を作品として鑑賞するにあたり、私が参照したものは「日本の官印」掲載の印影と加えて、御璽については「印判の歴史」掲載の印影も参照したということを前もってお断りしておく。
御璽と国璽の現存する印影を全体として眺めてみた印象は一見して誰もが親しみやすいものだ。
一般的な落款印は肥痩・欠損が顕著で不均質な線分で構成される文字や、「難解さ」をともなう「古色」(前回指摘した塑蝕や古蝕)が顕著であるが、御璽と国璽はその対局にある端正な文字とシンプルな構成が際立っている。
印に特に親しく接する機会の無い人にも文字の形がきっちりと正確に伝わる美しい文字、そして、それぞれの文字がお互いを犯し合うことなく己の結界を形作っている整然とした文字配置が印全体に「美しさ」と同時に「わかりやすさ」をもたらしている。このように御璽と国璽は「美しさ」と「わかりやすさ」が一つの章果に共存しているのである。
この「美しさ」と「わかりやすさ」とは我々が日々接する、紙幣等に印刷されている印影=実用印に共通するものであろう。御璽、国璽の全体的な特長は「篆刻」がもつ文人的、高踏的な雰囲気ではなく、実用印の意匠と共通した「平易」かつ「端整」な品格と美しさにあるといえる。
では御璽国璽の文字表現に立ち入ってゆこう。まず文字の「骨」について。
御璽、国璽の書体はいわゆる「摹印篆」である。重心が高く曲線の多い「小篆」や複雑な形体で煩雑な象形文字の痕跡を色濃く遺す「大篆」ではなく、これらの文字を基にしつつ、画数を減らしたり方形の印に収まりよく重心を中心よりやや下方にうつした漢代に完成した篆書体が摹印篆である。
先のエントリで紹介した高芙蓉の門人、杜澂は「古体派」を代表する人物であるが、その著書「徴古印要」の中で『印章の文字、これを摹印篆と云う。(略)方正質直して増減法あり。(略)学者宜しくその法を尽して始めて古印を謂うべし』(巻1篆法)『甘旭いわく、摹印は漢篆。八書の一なり。方平正直をもって主となす。減ずるは多く、増すは少なし。』(巻1摹印篆)などたびたび漢印の摹印篆についてその始源や特徴を論じている。大要、「摹印篆」は大篆(秦による文字統一以前の篆書体),小篆(秦の始皇帝が宰相李斯に命じて制定した篆書)をもとに点画を省略したり増画したりして作られたものであり、この増減法に摹印篆のキモがある。形状は方形、簡明であること、なかでも漢印の「摹印篆」が古印の模範となる、ことをくりかえし強調しているのである。
御璽、国璽はまさしくこの摹印篆の特徴をもっとも良く表した篆書体を採用している。
よく我々のお客様の中で「くねくねした書体」と篆書体を説明する方が居られるが本来の摹印篆は「くねくね」と言う語感がしめす「曲線」や「屈曲」はむしろ控えめであり「方平正直」こそがその旨となる。また、「増減の法」によりシンプルですっきりとした字形をあらわすものなのである。御璽と国璽のもつ「平易」で「端整」な印象の根本には「方正質直」「方平正直」な摹印篆の「骨」がある事は容易に理解される。
御璽国璽は、まさに「古体派」が提唱した印の理想型=典型的な「摹印篆」の「骨」をもった印章なのである。
それでは「肉」はどう解釈すればよいだろう。
御璽と国璽の現存する印影を全体として眺めてみた印象は一見して誰もが親しみやすいものだ。
一般的な落款印は肥痩・欠損が顕著で不均質な線分で構成される文字や、「難解さ」をともなう「古色」(前回指摘した塑蝕や古蝕)が顕著であるが、御璽と国璽はその対局にある端正な文字とシンプルな構成が際立っている。
印に特に親しく接する機会の無い人にも文字の形がきっちりと正確に伝わる美しい文字、そして、それぞれの文字がお互いを犯し合うことなく己の結界を形作っている整然とした文字配置が印全体に「美しさ」と同時に「わかりやすさ」をもたらしている。このように御璽と国璽は「美しさ」と「わかりやすさ」が一つの章果に共存しているのである。
この「美しさ」と「わかりやすさ」とは我々が日々接する、紙幣等に印刷されている印影=実用印に共通するものであろう。御璽、国璽の全体的な特長は「篆刻」がもつ文人的、高踏的な雰囲気ではなく、実用印の意匠と共通した「平易」かつ「端整」な品格と美しさにあるといえる。
では御璽国璽の文字表現に立ち入ってゆこう。まず文字の「骨」について。
御璽、国璽の書体はいわゆる「摹印篆」である。重心が高く曲線の多い「小篆」や複雑な形体で煩雑な象形文字の痕跡を色濃く遺す「大篆」ではなく、これらの文字を基にしつつ、画数を減らしたり方形の印に収まりよく重心を中心よりやや下方にうつした漢代に完成した篆書体が摹印篆である。
先のエントリで紹介した高芙蓉の門人、杜澂は「古体派」を代表する人物であるが、その著書「徴古印要」の中で『印章の文字、これを摹印篆と云う。(略)方正質直して増減法あり。(略)学者宜しくその法を尽して始めて古印を謂うべし』(巻1篆法)『甘旭いわく、摹印は漢篆。八書の一なり。方平正直をもって主となす。減ずるは多く、増すは少なし。』(巻1摹印篆)などたびたび漢印の摹印篆についてその始源や特徴を論じている。大要、「摹印篆」は大篆(秦による文字統一以前の篆書体),小篆(秦の始皇帝が宰相李斯に命じて制定した篆書)をもとに点画を省略したり増画したりして作られたものであり、この増減法に摹印篆のキモがある。形状は方形、簡明であること、なかでも漢印の「摹印篆」が古印の模範となる、ことをくりかえし強調しているのである。
御璽、国璽はまさしくこの摹印篆の特徴をもっとも良く表した篆書体を採用している。
よく我々のお客様の中で「くねくねした書体」と篆書体を説明する方が居られるが本来の摹印篆は「くねくね」と言う語感がしめす「曲線」や「屈曲」はむしろ控えめであり「方平正直」こそがその旨となる。また、「増減の法」によりシンプルですっきりとした字形をあらわすものなのである。御璽と国璽のもつ「平易」で「端整」な印象の根本には「方正質直」「方平正直」な摹印篆の「骨」がある事は容易に理解される。
御璽国璽は、まさに「古体派」が提唱した印の理想型=典型的な「摹印篆」の「骨」をもった印章なのである。
それでは「肉」はどう解釈すればよいだろう。
06/24のツイートまとめ
chikusonnomago京印章ブログ「京の一刻」更新小曽根乾堂布字説流布に関する考察〜京印章概論補説〜3http://t.co/1kVs8uD読んでね。
06-24 18:38
小曽根乾堂布字説流布に関する考察〜京印章概論補説〜3
さて、次に第二の側面、御璽国璽の作品としての文字表現からどのような事がいえるのか、検討してみたい。
実は御璽国璽についてその作品としての特徴や評価を詳細に検討している論文や書物は驚くほど少ない。私の狭い知見の中では唯一、水野恵先生が「日本篆刻物語」の中で「鋳造」でありながら「文人系」のさびを超克し篆書体の真骨頂を体現したものとして評価されている。水野先生は「鋳造」されたという前提で語られているが章果の品格を重く見ておられることは間違いない。御璽国璽の作品評価は現代にいたってこの様な有様であるので、私が拙い知見に基づいて御璽国璽の文字表現に言及する事は恐ろしく思い上がった恥知らずな事なのであろうが、話しの行きがかり上、どうか平に平にご寛容をお願いする他在るまい。
具体的な検討に移る前に文字表現についての私の基本的な捉え方について説明したい。私の文字表現評価の角度というか視角の在処についてである。
文字と言うものには2つの構成要素が在る。これは漢字、仮名文字はいうに及ばずアルファベットでもエジプトの神聖文字でも、おおよそ文字と名のつくものには基本的に共通している。
「骨」と「肉」である。
文字の形を決めるのが「骨」。文字には必ず太さとか厚みという一定の質感を伴っているものだが、この質感をこそげ落としていくとその文字の芯、すなわち形を決定した線分が残る。それが文字の「骨」である。
そして文字のもつ質感、これが「肉」となる。「肉」は文字を描写する道具(筆、刃物、ペンなど)や対象物(紙、石、金属とか)そして描いた主体の条件(力の強弱、速度など)等の描写・筆記条件によって生まれる。
「肉」の態様の変化で肥痩やエッジの強弱などの違いがうまれる。
この考え方は時代を越え、万国共通のようで身近なところで言えばイラストレーターなどのソフトで文字フォントの設計が「線」と「塗り」の合成として構想されているのを思い浮かべていただければ解りやすいと思う。いうまでもなく「線」が「骨」であり、「塗り」が「肉」である。
従って文字表現を評価しようとすると「骨」の評価とともに「肉」の観察、評価を行なわなければならない。特に「肉」についてはどのような道具で文字が表現されたかによって全く文字の表情が変わるのは容易に理解されるだろう。ペンと筆と印刀では同じ「骨」で文字を描いても全くその表情が変わる。書家の石川九楊先生はその有様を毛筆の場合は「書きぶり」彫刻文字の場合は「彫りぶり」と名付けられているが、この「肉」の部分が書道とか篆刻とか文字表現をジャンル分けした時、それぞれの造形をもっとも特徴づけることとなる。
では、印刻という表現においてその「彫りぶり」にはどのようなバリエーションがあるだろう?私は4つに分けて理解する様にしている。
第1は「刻蝕」である。文字通り刃物が印材を削り込むその「切れ味」が生む味わいである。文字と対象の境界にうまれる刃物特有の緊張感あふれるエッジとでも言おうか。
第2。「筆蝕」。これは石川九楊先生の造語であるが印刻にもまた求められる表現だと思う。楷書や行書、草書や隷書と印には書の字体を取入れたものが多い。筆が生む動き、躍動感・風合いを、いかに刃物で書のごとく感じさせるかという事もまた印刻の醍醐味であり味わいであるべきだ。
第3。「塑蝕」これは私の造語だが、印刻に限られる味わいである。印には「鋳造」と言う技法がある。砂や粘土、蝋型に金属を鋳込んで成型仕上げする印である。この成型方法による味わいは刃物でも筆からも生まれない独特のもので本来は彫刻という行為から直接生まれるものではない。彫刻された原印の「彫りぶり」が塑型の制約から丸みを帯び結体に墨だまりがうまれ特徴ある風合いに「馴される」のである。この鋳造印独自の風合いを「塑蝕」と呼ぶ事にする。
そして、この風合いの再現を意識して彫刻する文字が「古印体」と呼ばれる日本独自の印章書体である。「古印体」は「鋳造印」全盛時代の「大和古印」の研究、鑑識から発想されている。
第4。「古蝕」。これも私の造語なのだが、この味わいも本来は印刻という人の行為によって生まれるものではない。印が長年の使用をへて摩滅したり欠損したり、経年によって劣化風化したりする不作為によって生まれる風合い、「さび」「わび」と言えるものだ。だから厳密に言えば「創作」「表現」されるものではなく「鑑賞」「鑑識」されるものなのだがこの風合いを「表現」として再現させる技能もまた印刻の技に含まれる。
ここで一つだけ解説しておきたい。
実は第3の「塑蝕」と第4の「古蝕」は従来から私たちの業界では「古色」としてひとくくりに理解されてきた。「塑蝕」の要である「墨だまり」を特徴とする字体が「古印体」と名付けられたのも「古印」=「鋳造印」という印の歴史に鑑みればうなづける。しかし、ここ京都においては明治時代まで「鋳造」はリアルな製印方法として生き続けており、「塑蝕」は必ずしも「古印」特有のものではなかった。「古印体」という文字の形は「字形」の問題というより製造方法の問題だった、と言うのが私の考えである。昭和中頃までの京都における手彫り「古印体」作品は表現の重点が「塑蝕」である「墨だまり」よりむしろ「古蝕」である「肥痩」にあり、「墨だまり」と「欠損」に重点がある関東の古印体とは趣を異にしている、というのが私の見方である。このブログではあくまでも「京印章」の探究がメインテーマであるので京都の先人に学び「塑蝕」と「古蝕」を分けて考える事にした。
「骨」「肉」という個別の文字表現を捉える視点のほかに、「印」として完成性を捉える視点として「陰陽のバランス」がある。陰刻(白文)にせよ陽刻(朱文)にせよ刻された文字それぞれがバラバラに在るだけでは「印」の「章果」として完成した、とは言えない。
文字と文字の関係を調整し「章果」として文字同志を統合しはじめて「印」として完成したものとなるのである。「陰陽のバランス」は「印」が文字表現として文字と文字との「間隔」、外枠と文字との「間隔」など調和のとれた位置関係を保つ為の演出術と呼んでもよかろう。これが無ければ複数の文字が枠で仕切られた空間で共存し印刻作品としての統一性を発揮する事はできない。
先に示した4つの彫りぶり=「蝕」はあくまで文字本体の表現にポイントがある。「陰陽のバランス」は文字同志の相対的な関係や「骨」のありさまも大きくかかわる事で「骨」と「肉」あるいは「肉」と「肉」との境界やつなぎ目に生まれる「関係性」の表現なのである。文字同士の緊張感やリズム感、調和性など「方寸の世界」と呼ばれる世界観といった観点から味わうことが必要かと思う。印を印たらしめる独特の味わいと言える。
文字の「骨」と「肉」、「肉」に於ける4つの「蝕」、「陰陽のバランス」、これらの要素はそれぞれが独立している訳でなく一つの章果の中に影響し合いながら共存している訳だが作品によりどの部分がより鮮明に現れているかによりその作品の個性が決まって来るといえよう。
前回取り上げた古体派、新体派、あるいは実用印というものの文字表現を上記の角度から簡単に特徴づけると、古体派は「骨」の部分では「摹印篆」を尊び、「肉」の部分では「塑蝕」と「古蝕」とりわけ漢銅印を範とするものは「塑蝕」の表現にポイントをおくと言えるし、新体派は同じ「摹印篆」の「骨」を持っていても「刻蝕」をベースに「古蝕」にポイントが移る。また、「摹印篆」の実用印に至ると「肉」がそぎ落とされ均整のとれた「骨」と「刻蝕」が全面に強調される。
やや図式的な説明で恐縮であるが印章の章果にはこの様な色々な要素が総合されていると言う事だけは理解していただきたい。
随分回り道をしてしまった。
以上の事をふまえて御璽国璽の文字表現を検討してみよう。
実は御璽国璽についてその作品としての特徴や評価を詳細に検討している論文や書物は驚くほど少ない。私の狭い知見の中では唯一、水野恵先生が「日本篆刻物語」の中で「鋳造」でありながら「文人系」のさびを超克し篆書体の真骨頂を体現したものとして評価されている。水野先生は「鋳造」されたという前提で語られているが章果の品格を重く見ておられることは間違いない。御璽国璽の作品評価は現代にいたってこの様な有様であるので、私が拙い知見に基づいて御璽国璽の文字表現に言及する事は恐ろしく思い上がった恥知らずな事なのであろうが、話しの行きがかり上、どうか平に平にご寛容をお願いする他在るまい。
具体的な検討に移る前に文字表現についての私の基本的な捉え方について説明したい。私の文字表現評価の角度というか視角の在処についてである。
文字と言うものには2つの構成要素が在る。これは漢字、仮名文字はいうに及ばずアルファベットでもエジプトの神聖文字でも、おおよそ文字と名のつくものには基本的に共通している。
「骨」と「肉」である。
文字の形を決めるのが「骨」。文字には必ず太さとか厚みという一定の質感を伴っているものだが、この質感をこそげ落としていくとその文字の芯、すなわち形を決定した線分が残る。それが文字の「骨」である。
そして文字のもつ質感、これが「肉」となる。「肉」は文字を描写する道具(筆、刃物、ペンなど)や対象物(紙、石、金属とか)そして描いた主体の条件(力の強弱、速度など)等の描写・筆記条件によって生まれる。
「肉」の態様の変化で肥痩やエッジの強弱などの違いがうまれる。
この考え方は時代を越え、万国共通のようで身近なところで言えばイラストレーターなどのソフトで文字フォントの設計が「線」と「塗り」の合成として構想されているのを思い浮かべていただければ解りやすいと思う。いうまでもなく「線」が「骨」であり、「塗り」が「肉」である。
従って文字表現を評価しようとすると「骨」の評価とともに「肉」の観察、評価を行なわなければならない。特に「肉」についてはどのような道具で文字が表現されたかによって全く文字の表情が変わるのは容易に理解されるだろう。ペンと筆と印刀では同じ「骨」で文字を描いても全くその表情が変わる。書家の石川九楊先生はその有様を毛筆の場合は「書きぶり」彫刻文字の場合は「彫りぶり」と名付けられているが、この「肉」の部分が書道とか篆刻とか文字表現をジャンル分けした時、それぞれの造形をもっとも特徴づけることとなる。
では、印刻という表現においてその「彫りぶり」にはどのようなバリエーションがあるだろう?私は4つに分けて理解する様にしている。
第1は「刻蝕」である。文字通り刃物が印材を削り込むその「切れ味」が生む味わいである。文字と対象の境界にうまれる刃物特有の緊張感あふれるエッジとでも言おうか。
第2。「筆蝕」。これは石川九楊先生の造語であるが印刻にもまた求められる表現だと思う。楷書や行書、草書や隷書と印には書の字体を取入れたものが多い。筆が生む動き、躍動感・風合いを、いかに刃物で書のごとく感じさせるかという事もまた印刻の醍醐味であり味わいであるべきだ。
第3。「塑蝕」これは私の造語だが、印刻に限られる味わいである。印には「鋳造」と言う技法がある。砂や粘土、蝋型に金属を鋳込んで成型仕上げする印である。この成型方法による味わいは刃物でも筆からも生まれない独特のもので本来は彫刻という行為から直接生まれるものではない。彫刻された原印の「彫りぶり」が塑型の制約から丸みを帯び結体に墨だまりがうまれ特徴ある風合いに「馴される」のである。この鋳造印独自の風合いを「塑蝕」と呼ぶ事にする。
そして、この風合いの再現を意識して彫刻する文字が「古印体」と呼ばれる日本独自の印章書体である。「古印体」は「鋳造印」全盛時代の「大和古印」の研究、鑑識から発想されている。
第4。「古蝕」。これも私の造語なのだが、この味わいも本来は印刻という人の行為によって生まれるものではない。印が長年の使用をへて摩滅したり欠損したり、経年によって劣化風化したりする不作為によって生まれる風合い、「さび」「わび」と言えるものだ。だから厳密に言えば「創作」「表現」されるものではなく「鑑賞」「鑑識」されるものなのだがこの風合いを「表現」として再現させる技能もまた印刻の技に含まれる。
ここで一つだけ解説しておきたい。
実は第3の「塑蝕」と第4の「古蝕」は従来から私たちの業界では「古色」としてひとくくりに理解されてきた。「塑蝕」の要である「墨だまり」を特徴とする字体が「古印体」と名付けられたのも「古印」=「鋳造印」という印の歴史に鑑みればうなづける。しかし、ここ京都においては明治時代まで「鋳造」はリアルな製印方法として生き続けており、「塑蝕」は必ずしも「古印」特有のものではなかった。「古印体」という文字の形は「字形」の問題というより製造方法の問題だった、と言うのが私の考えである。昭和中頃までの京都における手彫り「古印体」作品は表現の重点が「塑蝕」である「墨だまり」よりむしろ「古蝕」である「肥痩」にあり、「墨だまり」と「欠損」に重点がある関東の古印体とは趣を異にしている、というのが私の見方である。このブログではあくまでも「京印章」の探究がメインテーマであるので京都の先人に学び「塑蝕」と「古蝕」を分けて考える事にした。
「骨」「肉」という個別の文字表現を捉える視点のほかに、「印」として完成性を捉える視点として「陰陽のバランス」がある。陰刻(白文)にせよ陽刻(朱文)にせよ刻された文字それぞれがバラバラに在るだけでは「印」の「章果」として完成した、とは言えない。
文字と文字の関係を調整し「章果」として文字同志を統合しはじめて「印」として完成したものとなるのである。「陰陽のバランス」は「印」が文字表現として文字と文字との「間隔」、外枠と文字との「間隔」など調和のとれた位置関係を保つ為の演出術と呼んでもよかろう。これが無ければ複数の文字が枠で仕切られた空間で共存し印刻作品としての統一性を発揮する事はできない。
先に示した4つの彫りぶり=「蝕」はあくまで文字本体の表現にポイントがある。「陰陽のバランス」は文字同志の相対的な関係や「骨」のありさまも大きくかかわる事で「骨」と「肉」あるいは「肉」と「肉」との境界やつなぎ目に生まれる「関係性」の表現なのである。文字同士の緊張感やリズム感、調和性など「方寸の世界」と呼ばれる世界観といった観点から味わうことが必要かと思う。印を印たらしめる独特の味わいと言える。
文字の「骨」と「肉」、「肉」に於ける4つの「蝕」、「陰陽のバランス」、これらの要素はそれぞれが独立している訳でなく一つの章果の中に影響し合いながら共存している訳だが作品によりどの部分がより鮮明に現れているかによりその作品の個性が決まって来るといえよう。
前回取り上げた古体派、新体派、あるいは実用印というものの文字表現を上記の角度から簡単に特徴づけると、古体派は「骨」の部分では「摹印篆」を尊び、「肉」の部分では「塑蝕」と「古蝕」とりわけ漢銅印を範とするものは「塑蝕」の表現にポイントをおくと言えるし、新体派は同じ「摹印篆」の「骨」を持っていても「刻蝕」をベースに「古蝕」にポイントが移る。また、「摹印篆」の実用印に至ると「肉」がそぎ落とされ均整のとれた「骨」と「刻蝕」が全面に強調される。
やや図式的な説明で恐縮であるが印章の章果にはこの様な色々な要素が総合されていると言う事だけは理解していただきたい。
随分回り道をしてしまった。
以上の事をふまえて御璽国璽の文字表現を検討してみよう。






